５ ソビエト社会の特権階級ノーメンクラツーラ
西側での思いがけぬ発見。西側の指導的階層の特権は、現存社会主義の国々と
比べて、何と小さい事か。
一 ロシアでは誰が幸福に暮らしているか？
西側諸国の閣僚の給料は高いが、ずば抜けて高いという訳ではない。別荘を設
ける事もできるが、一般の人と同じように貯蓄をし、ほかの何物かを断念しなけ
ればならない。閣僚が、ひとりの家事使用人も持っていない事も多い。つまり、
家の用事は奥さんがするのである。これは、東では考えられない事だ。
与党の副総裁が近所のクルマを傷付けて、免許を取り上げられ、損害賠償を命
じられた事件があった。ソビエトで類似の事件があれば、警察はその隣人のクル
マや所得を、手厳しく調べ上げただろう。
ヨーロッパの政府首脳は、ほかの人々と比べて決して大きい家に住まず、その
周辺に秘密警察がうようよしておらず、引退後は普通の市民に戻る事は、著者に
とっては驚きであった。
ロシアで幸福に暮らしているのは、ノーメンクラツーラである。これは、隠す
事ができない。
ソビエト市民は、西側諸国がブレジネフに送ったクルマの数々は知らなくても、
中でノーメンクラツーラがふんぞり返っている高級車「ジル」や「チャイカ」が
通るのを見ている。
外貨専用商店やデパートＧＵＭの特別売り場はノーメンクラツーラ専用。一般
市民は、これら神秘的なドアの前で、「立ち止まらないで先に進む」よう守衛か
ら求められる。
1986、ゴルバチョフのグラスノスチ政策に勇気づけられて、プラウダ紙はソビ
エト市民の忌憚のない意見を載せた。
党員ニコラエフの投書、「社会的公正を考えれば、指導的幹部が、特別食堂、
特別商店、特別病院を利用し、不平等を深めている事に眼をつぶる事はできない。
指導部はすでに高給を受けている筈である」
ノーメンクラツーラの特権的な生活は事実である。ルネサンス時代、ボッカチ
オはカトリック僧の偽善を暴いた。ノーメンクラツーラのボッカチオは未だに現
れていない。
二 ソビエト連邦共産党中央委員会の課長はどれくらい稼いでいるか
ソビエトの平均的な労働者および職員は、月収195ルーブル。中央委員会課長
は、月収450ルーブル。一年のうち一ケ月の休暇があり、休暇前に十二ケ月目の
給料に加えて、十三ケ月目の給料を貰う。つまり、年収にプラスして、一ケ月分
の保養費が加わる。
保養にも休暇にも、金はかからない。中央委員会用もしくは閣僚会議用のサナ
トリウムが無料で割り当てられる。妻にも割引料金、子供達は第一級のキャンプ
地へ。
課長には、クレムリョーフカが支給される。これは高位ノーメンクラツーラの
特権。月90ルーブル、もしくは120ルーブルの食品券であるが、旧価格で表示さ
れているので、実際は300ルーブル以上の価値がある。モスクワのグラノフスキ
ー街二番地クレムリン専用売店、もしくはセラフィモヴィッチ街二番地の政府ホ
ームにて、モスクワのいかなる店でも手に入らない最上級の品物の入った籠と引
き換える。
これを計算に入れれば、課長の給料は月860ルーブルという事になる。さらに、
現実のソビエト市民の所得は統計より低く、月120ルーブルを出る事はない。す
ると、課長は一般市民の七倍の収入を得ている事になる。
これだけではない。スターリンはさらに、ノーメンクラツーラに対してパケー
ト（＝金一封）を支払う習慣を作った。金額は微々たるものだが、この原則は廃
止される事はなかった。
三 ノーメンクラツリストの給料の「不透明部分」
1970年代までは「給料の不透明部分」と語られたが、現在は「社会的消費ファ
ンド」と呼ばれる、様々な特権がある。
サナトリウム、休暇用宿舎の割り当て、住居、託児所、幼稚園、ピオニールキャ
ンプ、レストラン、病院、診療所の提供。
ソビエト中央統計局によれば、これらの施設は社会の最下層の人々にも利用可
能とされている。しかし、ソビエトの労働者は知っている。自分達は、これらの
施設に近付く事さえ許されない事を。
ノーメンクラツーラ給与の「不透明部分」はまだ、ほかにもある。
ノーメンクラツーラ階級に属する作家、その論文、著書、講演に対する執筆料
は莫大である。党員、ロシア人、高学歴者が優先される。少数民族でも良いが、
ユダヤ人は好ましくないものとして排斥される。党出版局からの支払いは、タイ
プ用紙24枚につき300ルーブルが支払われる。24枚で労働者三ケ月分の賃金であ
る。
外国旅行もまた、ノーメンクラツーラの臨時収入となる。外国への派遣はすべ
て党機構によって決定される。一般の国民が外国へ行くには、様々な関門があっ
て、まず不可能。ノーメンクラツーラだけが、裕福な大名旅行を許される。のみ
ならず、物資不足のソビエトでは、外国商品を持ち帰れば、それは高値で売れる。
現存社会主義国では一様に、外国通貨のみが通用する店がある。これは、ノー
メンクラツーラの希望で作られた独創的な制度である。まず、ノーメンクラツー
ラが外国に出ると、そこでルーブルを西側通貨の小切手に代える。それを持ち帰っ
て、外貨専門店で使えば、順番待ちリストに記載される事なく、クルマや住宅さ
え購入できる。
四 ノーメンクラツーラへの心づけ
ノーメンクラツーラは、まだ足る事を知らない。彼は、賄賂を求める。西側で
も賄賂や汚職は存在する。しかし、賄賂や汚職は官僚機構の上で栄えるのである。
東方の専制国家は、官僚肥大と情報閉塞を必ず常に引き起こした。ロシアも、
その東洋的伝統に蝕まれ勝ちである。中央アジア、ザカフカス、アゼルバイジャ
ンでは、賄賂は常識である。
アゼルバイジャンでは、1969価格で、三万ルーブルで地区検事の地位が売却さ
れた。民警の地区部長の地位は、五万ルーブルである。どちらも地位に比べると
廉価で、この金は党の地区委員会書記に納められた。
コルホーズ議長は五万、ソホーズ長は八万。
アゼルバイジャン地区委員会第一書記の値段は、二十万、第二書記の値段は、
十万。それらは、バクーにあるアゼルバイジャン党中央委員会書記に対して支払
われる。地区委員会書記の権限は大きく、心づけも期待できる。
中央委員会傘下の地位は、もっと安い。劇場支配人は三万、研究所長は四万、
科学アカデミー会員は五万ルーブル。
大学学長は高くて、二十万ルーブル。理由は、学生から謝礼が期待できる為で
ある。外大で一万、一般大で二万、医大で三万ルーブルである。
閣僚の地位さえ売買された。アゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国の場合、
実入りの少ない厚生相の地位は十二万、同じく地方経済相の地位は十五万、これ
に対して流通権を握る商業相の地位は二十五万ルーブル。法律上は同じ地位の大
臣が、専ら実入りによって評価された。
これらの腐敗は、前任者である第一書記アフーンドフの解任とともに行われた。
アゼルバイジャンＫＧＢ議長アリエフによる摘発である。アリエフの下に、1983
人もの配置替えが行われた。
1973、アリエフ配下の者も、汚職を恥としない事が明らかとなった。バクーで
は今も、汚職が花盛りである。
ソビエトに置いて、ノーメンクラツーラが心づけに抵抗力がない事は、昔から
常識である。
1930年代、著者の家族の知り合いが、逮捕された妹の釈放を願って数々の試み
をして失敗。ＧＰＵ（＝現ＫＧＢ）長官の夫人に、がっしりした金の時計鎖を送
ると、その翌日、妹は釈放された。
著者の知人は、ＫＧＢ勤務の旧友に、アメリカ視察団の名簿に載せてやろうと
いう約束で、その場で300ルーブルを巻き上げた。その友人はこう言ったという。
「君はゴーサインを手に入れる。君は家でも電灯に対して金を払っているだろう。
青信号に対しても金を払わねばならないのだよ」
賄賂を歓迎する環境は、ノーメンクラツーラの連帯から生まれる。普通のソビ
エト市民が、アゼルバイジャンの商業相になれるだろうか。月150ルーブルの給
料で25万の賄賂を払うには、１コペイカの支出がなくても138年間働かねばなら
ない。金を持っているのはノーメンクラツーラである。そんな賄賂が出せるのは、
ノーメンクラツーラ本人か、それに近いグループでなければ無理。
ソビエトには、強盗団や大物の闇屋など、犯罪組織も存在する。彼らはノーメ
ンクラツーラの地位を狙わず、もっとほかの使い方をする。アゼルバイジャン共
和国最高会議の幹部会議長イスケンデーロフは非合法の価格表を作成。長期禁固
刑の恩赦の値段が十万ルーブル。
地区検事の公の給与は月180ルーブル、民警長官は月250ルーブル。つまり、ノ
ーメンクラツーラは、マフィアから金を取り立てて、それでより高い地位を購入
するのである。
五 つづく汚職の花盛り
アゼルバイジャンは例外ではない。グルジア共和国はもっとひどい。
グルジア党中央委員会第一書記ヴァシリー・ムチャワナゼ、第二書記チュルキ
ンは、大っぴらに汚職行政を司っていた。
社会相は十万、商業相、軽工業相は二十五万ルーブル。しかも、より需要が大
きかったので、ここでは競売が行われた。
ふたりの書記夫人の名はともにタマラで、両皇后タマラと尊称された。彼女ら
も競売に一枚噛み、西側通貨、宝石、骨董、名画を要求した。
西側では、ソビエト政府は厳しいが、ささいな汚職も見逃さない、厳しく罰せ
られるという意見がまかり通っている。しかし、以上が実状である。政権交代後
の、グルジア共和国共産党中央委員会の機関紙に載った公式の記事を引用しよう。
「保護主義的な経済運営、任命、昇進に際しての郷党やその種の同郷人えこひい
きが、縁故や賄賂を土台に花盛りである。女房や家族が、決定する際に、高位の
亭主にとって代わっている。家族や縁籍や親友のグループが、国政を牛耳りつつ
ある」
スターリンの出身地ゴリについて、「地区全体が特権を持っていると、どんな
事になるかは、ゴリの例からはっきり見てとれる。わずか一年間に、560余名の
検査官、担当官がゴリを訪れた。彼らは、ゴリがとりわけ特権のある地区だと知っ
ているから、素晴らしい情報を持ち帰って、熱に浮かされたようにゴリの指導者
を礼賛した」
「不適確な人たちが、思いもかけぬ人物の推薦で指導的役職に就けられる事も少
なくない。幹部機関で、「ご主人はこう言っておいでだ」とか、「奥方はこうお
望みだ」といった言葉をよく聞くようになった。詐欺師、贈賄犯、恐喝犯が、汚
い手を使って、指導的ポストをせしめた例もいくつかある」
「共和国の勤労者は、公正の勝利を期待し、勤労者を踏みつけにして、制する者
がいないのを良い事に、意のままに懐を肥やしている野放しの連中に手枷がはめ
られるのを期待して、喜んでいる。だが、悪意に満ちた耳打ちをしたり、こうは
考えない連中がいて、この危機的な時点で、素顔をあらわにする。こうした連中
は、決して変化を望んでいない。連中は、何もかも今まで通りことを運べると予
想しているのだ」
果たして、グルジアは浄化されたか。事件は摘発され、ムチャワナゼとチュル
キンは解任された。真実は勝った、と思われたが、そうは行かない。
旧内相シェワルナゼは、ムチャワナゼの乱脈を見て、好機ありと、汚職退治に
乗り出し、クレムリンの指導を求めた。つまり、アリエフのやり方に習ったのだ。
ブレジネフ書記長は穏便に済ませようとしたが、ＫＧＢ議長アンドロポフと第一
副議長ツヴィグンは、同じ警察機構を統括する内相シェワルナゼを応援した。結
果、シェワルナゼはグルジアのすべての役職を独占した。グルジアは相変わらず、
ノーメンクラツーラ賄賂共和国であり続けている。
ウズベキスタンも同様である。1967、著者は平和擁護ソビエト委員会代表団の
一人としてタシュケントに行った。ウズベク共和国ソビエト最高会議幹部会議長
すなわち国家元首ヤドガル・ナスリディノヴァ女史は笑顔で迎えてくれた。この
日は、死刑囚の特赦申請があった。著者は、古代の王様のように生殺与奪の権を
持つ事に浮かれていると思ったが、実は、特赦一件につき十万ルーブルの賄賂が
入るのだった。
ナスリディノヴァはその後、ノーメンクラツーラの階段をさらに昇り、ソビエ
ト連邦ソビエト最高会議第二院民族会議議長となり、十月革命記念パレードを上
から閲覧している。さらに、ソビエト連邦建築資材工業相第一代理となった。
ノーメンクラツーラは、収賄によって処罰を受ける事はない。稀に処罰があっ
ても、その処罰は寛大である。禁固刑を受けても、特権的な「役職者居住区」に
送られるだけ。
ノーメンクラツーラは収賄犯には優しいが、これを暴こうとする者には過酷で
ある。
社会主義資産横領追及キャンペーン・モスクワ部会議長グリシン、モスクワ地
区委員会第一書記ガルシュコを莫大な収賄で訴えようと準備。ソビエト共産党モ
スクワ支部の指示により、ＫＧＢ機関、グリシンを逮捕、有罪宣告。
ソビエト連邦弁護士Ｋ・Ｍ・シミスの挙げた例証。あるトラクター運転手、木
材加工企業支配人の不正を暴く演説を行う。すると運転手は、党地区委員会第一
書記の指令で党から除名、職場から追放された上、中傷罪で起訴。勇気ある証人
が弁護をしたが、運転手には有罪判決が下された。
ソビエト連邦では、こんな事で驚く人はいない。むしろ、逆だったら驚くだろ
う。
六 美味で体のためになる食事について
1939、「美味で体のためになる食事について」という、美しい挿絵いりの本が
出版された。多くのソビエト市民にとって、この本にある料理は非現実的だった。
薬味さえ入手不可能。にも関わらず、この本は売り切れてしまった。ノーメンク
ラツーラが買い占めたのである。以降、1945、1952、1965、1971、1982と、この
本は重版されている。
ノーメンクラツーラの家に招待されると、食事の量と質には驚かされる。首都、
地方とも、ノーメンクラツーラ官庁には素晴らしいレストランとビュッフェが付
属している。
党中央委員会の場合、専用ビュッフェは十一時に開店。ノーメンクラツーラは
ここで二回目の朝食を取る。量は少ないが、キャビア等、高級食材を使った料理
が提供される。
一時には特別レストランが開店。ＫＧＢ職員が警備し、厳選された信頼のおけ
るウェイトレスが立ち働いている。レストランは中央委員会のすぐ近く、ＫＧＢ
本部の真向かいにあるので、部外者が立ち止まったり、写真を撮ったりする事は
ない。ここの料理も高級だが量が少ないので、客は四皿、五皿も注文する。レス
トランは夕方にも開店するが、多くの人は家で夕食を楽しむ。
プロツニコフ通り十二番地にある党中央委員会国際部のホテルの食事は、完全
に無料。外国からの招待客は、みなここで食べる。現存社会主義国のすべてに、
このような迎賓館がある。
七 住宅
ソビエト市民の一人当たり居住面積は十二平米と定められている。社会主義国
ゆえ、最低保証と誤解されがちであるが、最大許容限度なのだ。それを越えると、
差し押さえられる。
一人当たり五平米が、だいたい最低ライン。これ以下だと、住宅問題で苦しん
でいるとされ、空室待ちリストに載せて貰えるが、長期間待たされるのは言うま
でもない。
ノーメンクラツーラは、このような住宅難とは無縁である。彼は中央委員会所
属のビルに住む。さらに、その快適な環境から、より広壮な住宅と交換を試みる。
ノーメンクラツーラの間では、引っ越しについての会話が盛んである。
十月革命の直後には、労働者がブルジョワの邸宅にお祭り騒ぎで引っ越しさせ
られた。今はそんな事はない。都市の一番美しい地域に、中央委員会、市委員会、
閣僚会議用の住宅が建設されつつある。外国の旅行者には、これは労働者の為の
住宅であると紹介される。
ノーメンクラツーラ用の住宅は、規格建築、突貫工事ではなく、意匠を持って
設計施工される。音のしないエレベーター、心地よい階段、広い居室のある、外
観の美しい住宅。モスクワでは、クツーゾフ通り、クンツェヴォ地区で見られる。
それは、貴族の館に等しいものである。
アパート住まいの大物ノーメンクラツーラは、八室も手に入れる事がある。ワ
ンフロア全体を所有する者もある。
公式統計によると、ソビエト市民の平均的居住空間は7.1平米である。最新の
発表でも、14.6平米となっている。しかし、モスクワは広い。モスクワの居住面
積を人口で割ると、四人家族は60平米の住宅に住んでいなければならない。モス
クワ住民がかくも苦しいのは、そこが狭いからではなく、ノーメンクラツーラが
あまりにも多くの居住空間を取っている為である。長らく家族と小所帯にひしめ
き合い、順番待ちをしている人達から、ノーメンクラツーラが盗んだ、という事
を理解しなければならない。
八 別荘（＝ダーチャ）
課長は住宅のみならず、別荘も手に入れる。モスクワ近郊の別荘は7000〜12000
ルーブルだが、誰もそれを買う者はいない。ノーメンクラツーラには快適な別荘
が、無料で、ひと夏中貸し出される。
別荘地には、食糧品店、レストラン、映画館、クラブ、図書館、スポーツ施設
がある。
それは貸与なので、課長は別荘の手入れなど、一切をしない。花はなく、管理
人の植えた花壇があるだけ。一本の釘さえ打つ者はなく、小さな修理も管理人に
申し出られる。普通の別荘の持ち主は、庭いじりをしたり、大工仕事をしたりす
るが、ここではその正反対の現象が見られる。ノーメンクラツーラの多くは農民
の出身であるが、ここで土いじりをするのはしきたりに反する。ノーメンクラツ
ーラが肉体労働をするのは、沽券に関わるのである。ここにも、成り上がりノー
メンクラツーラの集団感情、労働に対する嫌悪感が示されている。
九 クルマ
西側では、クルマで人をびっくりさせる事はまずできない。ソビエトでは事情
が違う。クルマを持つ家庭は少なく、その代わり、高級幹部は運転手付きのクル
マを持つ。
中央委員会、閣僚評議会では、黒塗りの「ヴォルガ」が主である。課長、閣僚、
評議会議長らの公用車は、黒塗りのリムジン。ノーメンクラツーラ最上層には、
防弾装甲のリムジン「ジル」が与えられる。庶民はこれを、「黒い棺桶」と呼ぶ。
このクルマはモスクワ・リハチョフ自動車工場で手作業で作られ、部品の一部は
ロールスロイスに特注される。
専用車には、専用運転手が付く。運転手は、家事係、子守り、家庭教師、女性
秘書とともに、ノーメンクラツーラの「用務要員」であり、ノーメンクラツーラ
の仲間内ではこれを見下して、「召使い」と呼ぶ。
ノーメンクラツーラに影響力を持つ側近は女性秘書と見られ勝ちだが、実は運
転手である。運転手はすべてを知っている。慎重で有名だった中央委員書記ポノ
マリョフは、私用ではタクシーを使ったくらいだ。
運転手は特別食堂、特別診療所への出入りも許される。上司との運命共同体で
ある。
十 電話のバラード
電話はノーメンクラツーラのステータスシンボル。政府回線につながっている
二台の電話は秘書も傍受できない。
特殊な回線、また長距離の利用を考えて、交換は自動ではない。電話の持ち主
は双方とも重要人物であり、並の人間には手の届かない電話で話すという甘い楽
しみはノーメンクラツーラの優越感をくすぐる。
モスクワの市内通話は、無秩序が横行している。受話器を上げると、よその会
話と混線する事が多い。そして、盗聴されている可能性もある。ノーメンクラツ
ーラの電話も、すべて盗聴されている。
元秘書ボリス・バジャーノフ、1923、スターリンが電話の盗聴を行っているの
を見たと証言。
ノーメンクラツーラも、自分達の会話を、盗聴勤務の仲間が傍受している事は
知っている。それでも、喜びを曇らされる事はないのは、この支配体制に満足し
ている為である。
十一 社会的差別
所得格差はどこにでもある。だが西側では、収入、地位に関わりなく、誰でも、
どんな店にも入れるし、どんな料理でも食事できる。勿論、懐と相談した上でだ
が、どんな高級品の購入さえ禁じられている訳ではない。
ノーメンクラツーラの国では、事情が違う。高位ノーメンクラツーラは一級品
をたやすく手に入れる。しかも、安価で。そして、国民の99％は、ノーメンクラ
ツーラ専用施設に立ち入る事を禁じられている。
指導部の特権待遇はレーニンに始まる。
1921.7/22、レーニン指令発布。「食糧管理人民委員に、外国人、ならびに外
国のコミンテルン・メンバーに食糧および他の物資を販売する特別商店を設ける
よう要請する」
ここから、特別商店網が発達した。その中に、特別商店、特別食堂、百貨店特
別販売部が存在する。
1984-86、スベトラーナ・アリルーエヴァ、「最高級だが安い食糧品店」を満
喫。
現在、ベリョースカ（＝白樺の若木）・チェーンの存在。ここは外国人専門の
店だが、ノーメンクラツーラも利用する。ノーメンクラツーラは自らを、国内の
外国人と見なしている証拠。電話帳にははっきり、「住民お断り」と書いてある。
ベリョースカには守衛が立っている。ノーメンクラツーラと、厚かましい一般
市民とを分別している。ここでは、時計、宝石、カメラ、毛皮、何でも手に入る。
並の人民が長蛇の列を作っている一般商店に行く必要は感じられない。
値段は高いかと思われるが、一般商店よりも逆に安い。270ルーブルの茶器は、
外貨払いだと148ルーブル、何と45％の値引き。820ルーブルの羊のオーバーは、
外貨払いだと287ルーブル、65％の値引き。
十二 ノーメンクラツリエンという特別国で
ノーメンクラツーラ仲間では、高位ノーメンクラツーラはソビエトではなく、
どこか特別な国で暮らしているようだとささやかれている。
住民とは隔離されて、特別な住宅、病院、学校の中で、住民を見る事なしに、
仕事をし、食事をし、休暇を取る事ができる。この特別国の発見者は、またして
もレーニンである。
1918.10/25、レーニン、妻クループスカヤ、妹マリヤを伴って、モスクワ近郊
ゴーリキー農場を訪問。ここは彼の為に貴族から没収された領地で、国有ダーチャ
第一号となった。
選び抜かれた家具、絨毯、シャンデリア、金枠に入ったベネチア鏡。レーニン
は何ひとつ調度を変えないように命令、そしてここを「私達のダーチャ」と名付
けた。確かに、「レーニンの夏宮」と名付けるのは具合が悪かっただろう。
1922.3/、イズヴェスチヤ紙、レーニンがゴーリキーの家ではなく、モスクワ
市外コルシンキノ旧領主邸に滞在と報告。要人が国営ダーチャを数戸持つのは常
識となる。
ノーメンクラツーラのサナトリウムについて。
ソビエトの保養地のすべてで、中央委員会、もしくは閣僚会議に所属するサナ
トリウムが存在する。
ここに出入りするのはノーメンクラツーラのみ。ここでは、呆れるほどの乱脈
乱倫ぶりが見られる。一年のうち十一ケ月は貞節な配偶者の役を演じるノーメン
クラツーラの男女は、ここで、これまで怠ってきたすべてを取り戻す。
西側では娼館と呼ばれるものが、モスクワでは休暇寮と呼ばれている、という
ことわざがある。食事も設備も第一級、医者も多い、そして、これが特に好まし
いのであるが、可愛い看護婦も多いのである。
西側のジャーナリストの多くが、モスクワ駐在時代を郷愁に満ちて回想するの
を、著者は不思議に思った。外国のジャーナリストは、つねにＫＧＢの監視下に
ある。ソビエト市民との接触は制限されている。そんなジャーナリストのモスク
ワ滞在を魅惑的にしたのは何だったか。それは、特権的な待遇である。いかに窮
屈でも、外国人は一般市民とは比較にならない生活を享受する。モスクワ市民は、
商品は買えない、外国へは行けない、西側の本や新聞は読んではならない、政治
について語る事もできない。モスクワ市民は、四つん這いになって歩いている。
しかし、西側特派員は、たとえ腰をかがめてでも、二本の足で歩けたのだ。この
選民であるという事が、魅惑的な記憶として脳裏に刻まれる。
ノーメンクラツーラは、ノーメンクラツリエンという特別国を、祖国を置いて
きぼりにして、ますます豊かに、肥沃にしようとする。
課長と部長の差も、厳しく峻別される。
課長の執務室は小さく、廊下から入ればすぐに会える。部長代理ともなると、
控え室と女性秘書が付いている。彼女はたいてい若くない。かくして疑惑の影は、
ノーメンクラツーラの上に一度たりともささない。より高い地位にある役員の場
合、秘書は男性である。
課長は公用車の利用に際して予約が必要、部長代理には運転手付きの自動車が
与えられる。部長代理は、ノーメンクラツーラ指導部へ登るステップである。州
委員会第一書記ともなれば、州の絶対的な大守であり、他の書記は助手に過ぎな
い。
部長や州委員会第一書記の葬儀は国葬扱い、軍隊が参列して吹奏楽が付く。そ
の歌、「闘いに、労働人民に対する奉仕に倒れし、君ら、勇敢な犠牲者よ。君ら
はできる限りの事を、ただ人民の幸せの為にのみ行った」
十三 オリンポス山の家々
赤の広場でレーニン廟から手を振るほどの高位ノーメンクラツーラは、どのよ
うな暮らしをしているのだろうか。これについては、「アメリカ最高の億万長者
と同じ」と言われる。
十四 七重の垣根のかげで
党中央委員会書記の正規の給料は、月1000ルーブルである。しかし、このほか
に、ソビエト国立銀行に白地口座を持っていて、いつでも自由な金額を国家から
引き出す権利を持っている。さらに、ふだんの贅沢な暮らしも国費で賄われてお
り、一銭たりとも自腹を切る必要がない。中央委員会本部長に電話一本かければ、
宮殿のような別荘さえ手に入る。
スターリン時代のノーメンクラツーラの邸宅がどのようなものか、実物が何件
か残っている。
ヴォスタニヤ広場のチュニジア大使館、ここはかつてベリヤの御殿だった。陰
気な私服警官が多勢立っていたので、誰も近くを歩かない。ここのサロンではか
つて、ベリヤのボディガードに連行されて来た、おびえた娘たちと、反吐の出そ
うな狂宴が行われた。ここの地下室でベリヤは、彼を楽しませる為に連れて来ら
れた虜を手ずから拷問にかけた。彼が失脚した後、ここから、特製の、入念に手
入れを施された、各種の拷問道具が発見された。地下室には、監獄がある。政治
局の一メンバーが、面白いからという理由で、社会主義国の市民を拷問にかけた
のである。1980、スピリトノフ小路の回線工事の際、ベリヤ邸から護衛の家に通
じる地下道が発見された。そこは人骨でいっぱいだったが、ＭＶＤとＫＧＢの指
示で埋め戻されたそうだ。
今は博物館になっているマクシム・ゴーリキーの家は宮殿のようで、スターリ
ンや他の政治局員の家より大きかった。スターリンはよくここへ羽根を伸ばしに
来た。
ポメランツェフ小路のキューバ大使館は、かつての政治局員マレンコフの三件
目の家であった。
ブレジネフ時代、政府高官はクツーゾフスキー・プロスペクト二六にある中央
委員会のアパートに住んでいた。七階の五部屋にレオニード・ブレジネフとその
妻ヴィクトリア・ペトロヴナ等が住み、その隣にアンドロポフや内相シュチェー
ロコフが住んでいた。表には警官が立ち、市民が中庭を歩く事もできた。だが、
これは擬装で、本当はモスクワ近郊ウゾフォ村にある国有ダーチャで暮らしてい
た。他の高官も同様である。
モスクワ周辺の国有ダーチャは立入禁止区域であり、庭は高い垣根で囲われ、
厳重に監視されている。ノーメンクラツーラ高官は、人民から遮蔽されている。
夜は、西側の映画が邸内で上映される。マリリン・モンローが人気だったが、
国有ダーチャの住人はそんな事では満足しない。だが、これ以上は語るまい、ベ
リヤの娯楽に比べたらかわいいものだ。
国有ダーチャの起源は、1919年。赤軍兵士がぼろぼろになり、四分の一かけら
のパンを食べ、戦い、死んでいった時に、指導者の間ではモスクワ周辺の邸宅の
分配が始まった。
1919、スベトラーナ・アリルーエヴァの記述、「ミコヤンのダーチャには、イ
タリアから輸入された大理石像、フランスのゴブラン織り、庭にはテニスコート、
オレンジ園、馬小屋があり、冬でも自家温室で野菜が食べられた」
人民に対して、つねに犠牲になれと要求していた当時の新聞の中で、指導者の
快適な暮らしに関する記事を探しても無駄である。
1920年代、スベトラーナ・アリルーエヴァの記述は、ツルゲーネフの貴族の巣
のように甘美である。
「私達の農場は、繰り返し改築され改造されました。お父
さんは家を取り巻く森を間伐させ、森の半分を伐採させておしまいになりました。
あたりはますます明るく、暖かく、そして乾燥してゆきました。森は手入れされ、
下草は刈り取られ、干し草は春に集められました。家の前には、白く輝く白樺の
林がありました。ここで私達子供は、きのこ狩りをしたものでした。あまり離れ
ていない所に、蜂小屋が作られました。森の草地には夏になると、蜂蜜を取る為
にソバが植えられました。高い松林のまわりの空き地も、同じように手入れされ、
いちご、ブルーベリーが植えられました。ここの空気はいつも新鮮で、芳しい香
りがしました。大きな空き地には果樹が植えられ、いちご、すぐりが植えられま
した。家から少し離れた所では、小さな牧草地が垣根で囲まれました。ここでは
キジ、ホロホロチョウ、七面鳥が飼われました。小さな池にはアヒルが泳いでい
ました。これらはみな、突然あらわれたものではありません。私が子供だった頃
から、徐々に繁殖するようになったのです。そして私達子供は、干し草刈りをし
たり、いちごやきのこ狩りをしたり、毎年収穫された新鮮な自家製蜂蜜、自家製
塩漬け、自家製家禽を食べたりして、本当に小地主の田園的な環境の中で大きく
なったのでした」
これは党の指導者が、数羽の鶏を飼おうとする一般人民のプチブル根性をがみ
がみ怒鳴りつけていた時期の事である。
こうした1920年代の生活は、Ｓ・アリルーエヴァによれば、「まだごく普通で、
つましい」ものであった。
1932、Ｓ・アリルーエヴァ、「父専用の為になお幾つかのダーチャが建て始め
られました。私のママは、無尽蔵の国費から流れ出る、その後の贅沢を楽しむ事
はできませんでした」
当時のモスクワの新聞の報道、「赤の広場でのパレードが終わった際、ひとり
の少年が親にはぐれてしまった。同志スターリンは電車賃を上げようと思いポケッ
トを探ったが、１ルーブルも持っていなかった」
Ｓ・アリルーエヴァの記述、「スターリンの机の引き出しは、封印されたお金
の包みで溢れていた」「彼はまったくお金を出さなかった」「彼の全生活、ダー
チャ、家々、給士、食糧、衣服、このすべては国家によって支払われた」「彼の
食卓には、グルジア産ワイン、飛行機で運ばれた果物が並んだ」「国家保安省所
属・スターリン護衛隊長Ｎ・Ｓ・ワラーシクさえ、個人的に数百万ルーブルの金
を自由に使った」
スターリンの妻アリルーエヴァの死後、その家計はすべて国家負担となった。
そして、家事要員は急増した。娘スベトラーナ・アリルーエヴァの記述、「給士
要員、家事要員の数は、数え切れないほど増えた。料理人も女中も、特別局によっ
て選抜され、ＫＧＢの勤務員となった」
兄ワシリーについて、「ワシリーは、犬の檻と馬小屋のついた彼の広大な国有
地に住んでいた。そこで彼は意のままに家計を司っていた。勿論、国家負担で。
その彼には功労賞、勲章が送られ、自動車、馬、あらゆる特権が与えられた」
黄金の雨は、ノーメンクラツーラに潤沢に、豊富に降り注ぐので、給士要員も
その恩恵を受けた。
スターリン最後の愛人ワレンチナ・Ｖ・イストーミナは、家政婦として勤務し
た。勿論、国費負担。
家政婦、給士要員、監視要員について、「彼らはただひとつの目的を持った。
この小さな暖かい環境にいる間に、できるだけ多くを掻き集める事である。彼ら
はみな自分のダーチャを建てた。彼らはみな国家負担で自動車を調達した。彼ら
はみな大臣と髪の毛一本も違わない生活をしていた」
スターリンの邸宅の数は、戦争後も増え続けた。
終戦後、西部国境からヴォルガに到る焦土と化した土地に、ダーチャの新築は
急増した。
1946、スターリン、国内視察の旅。同時に、ダーチャ建築。スフミ、リッツァ、
ヴァルダイ山中、黒海沿岸、ヤルタに、スターリン専用のダーチャ建築。さらに、
クリミアの皇帝宮殿も、スターリンの私用に委ねられる。
モスクワ周辺だけでも、リプキの農園と、セミョノフスコーエの新しい家があっ
た。グルジアにも複数のダーチャ、ツグディディの海の家、ツハルツボ海水浴場
などがある。
これらのダーチャを訪れるのに、スターリンは体が幾つあっても足りなかった
だろう。Ｓ・アリルーエヴァ、「父はたまにしかそこに居なかった。しかし、ス
タッフは全員待機の状態であった」
ほかの幹部についての、Ｓ・アリルーエヴァの記述。
「ベリヤのダーチャは大きくて贅沢、松林の中の白い家。映写室もあったが、こ
れはすべての指導者のダーチャに常設」
「モロトフの家とダーチャは、贅沢の面で際立っていた」
「ヴォロシーロフは贅沢好き、そのダーチャはモスクワ近郊でもっとも大きく豪
華。以前騎兵だったヴォロシーロフは、ダーチャで馬の遠乗りをした。勿論、国
費で維持管理された」
「ミコヤン、モロトフ、ヴォロシーロフのダーチャには、絨毯、コーカサスの金
製品、高価な陶磁器、碧玉の花瓶、象牙の彫刻、東欧の工芸品で溢れていた」
同じ頃、モスクワには、人間のひしめき合ってない地下室はどこにもなかった。
西側の地下室とは比べ物にならない、狭くて湿った地下室に、私はどれだけ居た
だろう。
スターリン以降のダーチャ。
ピツンダの森は古い松の木が多く、ソビエトの出版物の多くが、この自然保護
区の重要性について書いている。その後、松林のかなりの部分がコンクリートの
壁で遮蔽され、港付きの国有ダーチャが建てられた。1959、著者は、ふたりの警
備員が砂浜に赤い絨毯を広げ、そこに着いたモーターボートからフルシチョフが
降りるのを見た。
この警備員も、近くに別荘を持ち、家族とともに暮らしている。その上、海水
浴シーズンには休暇客に賃貸している。
1943-44、著者はモスクワ大学歴史学部で、Ｓ・アリルーエヴァと机を並べて
学んだ事がある。そのシベリアリスの毛皮、濃いイギリス風のスーツ、鮮やかな
絹のブラウス、第一級の靴などは、私達が見た事もない品々ばかりだった。それ
らは外国製ではなく、ソビエト製であったとしても、やはり、ノーメンクラツリ
エンという特別国で作られたものである。
十五 孤独者の階級
スターリンは国内の物価が判らず、革命前の物価しか覚えていなかった。人民
の暮らしについて、おぼろげながら想像する事もなく、人民の上に君臨するスタ
ーリンの伝統は、その後も踏襲されている。フルシチョフは、映画よりほかに情
報源を見つける事はできなかった。
ノーメンクラツーラは、体制を批判する不平分子を「背教者」と呼ぶ。だが、
国民にも、建国の理念にも背を向けた本当の背教者は、ノーメンクラツーラ階級
そのものではないか。
こんな笑い話がある。党中央委員会のメンバーを、田舎のコルホーズから母親
が訪ねてきた。彼はダーチャで母親を迎え、クレムリョーフカ料理で持てなした。
すると、母親は帰ろうとする。どうしたのと問う息子に対して、母、「ここは快
適だよ。でも、アカがやって来たら何が起こるか判らないよ」
６ ソビエト社会の改革を敵視する階級ノーメンクラツーラ
アカの到来を未然に防ぐ思いが、ある程度の改革を許す事はある。だが、ノー
メンクラツーラは現状維持を望む、ソビエトでもっとも保守的な勢力である。
一 もっとも保守的な勢力
どの支配階級も、権力を確立するや保守的になる。しかし、現代世界で、ノー
メンクラツーラほど、かつての改革一本槍を捨て、改革を敵視している集団はな
い。
1953、東ドイツ暴動、ポーランドのポズナン抵抗運動。1956、ハンガリー動乱、
ソビエト国内デモ。1960、学生運動。1968、チェコ・プラハの春。1970、ダンツィ
ッヒ・スト。1980、ソリダリノスチ。すべてソビエト軍が出動して弾圧した。
ブレジネフは十八年間、不動路線を取り続けた。だから、ノーメンクラツーラ
から心底好かれた。
しかし、改革の必要はないのか。
試算では、ソビエト国民は買い物の行列に650億時間を費やしている。つまり、
一年で740万年の無駄。
1987、平均月給は、労働者＆職員、195ルーブル。農民、159ルーブル。それぞ
れ、554マルク、452マルク。
家計のうちの食糧費比率、ソビエト、80％。アメリカ、25％。
軍産複合体のみ、近代水準。
二 変革の波
社会主義圏にも、資本主義の経済周期に対応する動きがある。しかし、経済周
期が頂点から底辺へ降りて、より高い頂点を目指すのに対して、社会主義圏の周
期は心電図のように、頂点も底辺もずっと平行に移動する。
ソビエト国内の変革の波は次の三つ。
1921-1928、レーニンの新経済政策（＝ＮＥＰ）
間に、スターリンの25年が入る。
1953-1964、マレンコフの雪溶け＆フルシチョフの改革。
間に、ブレジネフに代表される20年が入る。
1985〜、ゴルバチョフのペレストロイカ。
改革の間、波と波の間が著しく長い。これは、指導部が変革を望まない事を表
している。
三 第一の波 ＮＥＰ
1920-21、ソビエトは全面的破局に突入。
大戦と内戦で、2000万人が死亡、4500万人が負傷。国民所得は1/3に減少。
1920、穀物生産は半分。1921、大凶作、飢饉の予想。
工業生産は、1913年の13.8％に低迷。
国民の不満、暴動の頻発。革命家アントノフ、農民ゲリラを指揮してタムボフ
地区を制圧。無政府主義者マフノの軍、ウクライナにて赤軍と戦闘継続。
1921.2/28、ペトログラード郊外クロンシュタット要塞駐屯軍の反乱。この軍
は、かつての十月革命の中心勢力。ここが、「ボルシェヴィキ打倒」「共産党抜
きのソビエト」を旗印に掲げた。駐留軍は現体制を、コミッサロクラティー（＝
人民委員官僚制）として批判した。
レーニンの英断。戦時共産制を、新経済政策（＝ＮＥＰ）に転向。
1921.3/15、現物納税の認可、さらに、50％の減税。農民は余った作物を自由
に売る事ができた。商業の自由、企業の国有化停止。
無給の超過労働の廃止、一日八時間労働の復活。
ＮＥＰのお陰で情況は目に見えて良くなった。レーニンの死後、宿敵トロツキ
ーを倒した後、スターリンはこれ以上、権限の削減、民間への譲歩に甘んじる必
要はないと判断した。
スターリンの反改革。
一、軍事大国を目指した重工業と官僚制の充実。
二、農業の再集団化。レーニンのプラン「土地指令」は廃止。ＮＥＰメン、自
由農家クラーケンは、ほぼ絶滅収容所送り。
三、ウクライナ農民を萎縮させる目的での、人口的な飢饉。死者、500万。
四、さらに第二次世界大戦、死者2000万、負傷者500万。
四 第二の波「雪どけ」とフルシチョフの改革
フルシチョフの最大の功績は、スターリン批判である。
スターリンの共犯だった党中央委幹部会、諸外国の共産党指導部の恫喝を斥け
てのスターリン批判。人類最大の天才が、大量殺人犯だった事を明かす。ベリヤ
一味の処刑、収容所の廃止、大量の名誉回復。
しかし、商業の自由や農村の独立は認めなかった。農業政策は深く練られたも
のではなく、猫の目のように変わって、かえって減産を招いた。
官僚統制の委譲。経済統制は、中央、地方のソヴナルホース（＝国民経済会議）
に移された。これは、ノーメンクラツーラの逆鱗に触れた。
さらに、軍縮。1957、大陸間道弾ミサイルの成功に気を良くしたフルシチョフ
は、通常兵力120万の削減を実現した。退役軍人はコルホーズへ編入された。こ
れは成功したが、軍指導部は動揺した。
1962、フルシチョフ、党機関の改革。中央、地方の委員会を、農業担当、工業
担当と振り分ける。これは、全権を握る第一書記クラスの人間を怒らせた。
フルシチョフの党改革、上級幹部の任期定年案。幹部は三期、委員会は選挙の
度にその1/3を改選。
1964.10/、フルシチョフ失脚、改革帳消し。
ブレジネフに代表される、全身不随の二十年。ブレジネフ自身は、活動的で積
極的だが、その背後にあるノーメンクラツーラが国家を不随にした。
五 第三の波 ゴルバチョフの「ペレストロイカ」
1985、ミハイル・ゴルバチョフ、ソビエト共産党中央委員会書記長に就任。
ソビエト経済の対アメリカ比。
労働生産、40％。工業、55％。農業、25％。この数字さえ、粉飾されている。
ソビエトの農業人口は全人口の15％で、アメリカの５倍、それでこの数字。この
過小生産は、否応もなく改革を求めた。
第三世界での、反共解放運動の隆盛。アフガニスタン、エチオピア、アンゴラ、
カンボジア、モザンビーク、ニカラグア。特に、解放後のグレナダの議会制民主
主義の熱狂。
さらに、若年世代のパンク、ヘヴィ・メタル。
これらを踏まえての、ゴルバチョフの改革。ペレストロイカ（＝立て直し）、
グラスノスチ（＝硝子張り）。しかし、スローガンほどに実行は少ない。当時の
笑い話。ソビエト市民が眼科医を尋ねて言う。「先生、聞こえているのに、見え
ないんです」
ゴルバチョフの改革は、フルシチョフの改革を下回った。政治犯の釈放、軍縮、
ともに成果は僅か。ただ、市場経済の導入が大きかった。
ノーメンクラツーラも、改革は不可避と認めた。間近に迫る情報通信の改革に
乗り遅れれば、ソビエトは世界の二流国になり下がる恐れがあった。ノーメンク
ラツーラは、圧力があって始めて改革に乗り出す。圧力が弱まれば、すぐにでも
改革を帳消しにするのだ。
７ ノーメンクラツーラの独裁
レーニン全集28巻P234、「独裁的支配とは、個人でもグループでも一階級でも
可能。独裁とは、法の拘束を受けぬ、暴力に支えられた権力である」
一 ソビエト連邦にソビエト権力は存在するか
1905以前、レーニンは過渡期の国家形態をパリ・コミューンのようなものと想
定していた。
そこでは、議会より大衆が主導権を握り、警察も軍も民衆の直接武装に置き換
えられる。官僚も、民衆の委任代理を果たすに過ぎず、その給与は良質の労働者
を越えない。
ソビエト政府は、すべての点でパリ・コミューンの正反対である。人民は絶対
服従、武装解除。巨大な軍と警察、官僚はブルジョワ的高給取りであるばかりで
なく、支配、搾取、特権の花盛りである。
このようなマヌーバー（＝ごまかし）は、やはりレーニンに遡る。
マルクスによれば、あらゆる国家は支配階級の独裁である。ソビエトは、プロ
レタリアの独裁であるから、もう何も変える必要はないと扉を閉ざす。これは、
怒りをかわし、問題点をうやむやにする点で有効である。
では、現実の権力機関はどこにあるのか。
二 「命令機関」または「当局」
党中央委員会が、すべての権力の中枢である。ノーメンクラツーラの間では、
ここを「命令機関」と呼んでいる。または婉曲に、「当局」と呼ぶ。
しかし、部外者が中央委員会機構の執務室へ入れば、次のような会話を耳にし
て驚く。「この問題は、党中央委員会にはからなくてはならない」
そこで言われている党中央委員会こそは、書記局と政治局である。
三 書記長
ソビエトで最高の地位を占める書記長、その書記長もノーメンクラツーラの代
理執行者に過ぎない。ノーメンクラツーラの利益削減を試みる者は、マレンコフ
やシェレーピンのように、指導部からはじき出される。
四 クレムリン内の権力闘争
ノーメンクラツーラ内部も、様々なグループ活動によって成り立っている。出
世指向の者は、有能な人間を集めて、グループを形成する。自分がトップに着け
ば、家臣にも良いポストを与える。しかし、この家臣も信頼できない。フルシチョ
フは、家臣のブレジネフによって失脚させられたのである。
１グループの実例、ドニエプロペトロフスク・マフィア。
現代ソビエトの高位ノーメンクラツーラの多数が、ドニエプロペトロフスク出
身である。
政治局員兼書記キリレンコはドニエプロペトロフスク出身。政治局員シチェル
ヴィツキーはドニエプロペトロフスクの隣町ドニエプロジェルジンスク出身。政
治局員チーホノフは、ドニエプロペトロフスク州国民経済会議議長だった。
さらに、ドニエプロペトロフスク専門学校冶金専攻出身には、閣僚会議副議長
ノヴィコフ、書記局部長ツカーノフ、上級大将ツィーネフ、ＫＧＢ議長代理チェ
ブリコフ、内相シチョーロコフ、党中央委員会事務局長パヴロフらがいる。
まだほかにもドニエプロペトロフスク出身の高官は多く、幾らでも挙げられる。
その中心にいるのは、ドニエプロジェルジンスク出身、ドニエプロペトロフスク
専門学校冶金科卒の、レオニード・ブレジネフである。
その経歴、ドニエプロペトロフスク州委員会書記、モルダヴィア共産党中央委
員会第一書記。よって、モルダヴィア出身者も高位ノーメンクラツーラの中に多
い。
政治局員兼書記チェルネンコ、元はモルダヴィア中央委員会宣伝部長。ＫＧＢ
議長第一代理ツヴィグン、元はモルダヴィアＫＧＢ長官代理。党中央委員会科学
兼教育施設部長シチョーロコフ、元はモルダヴィア閣僚会議第一副議長。
これら、ドニエプロペトロフスク＝モルダヴィア・マフィアは、単なる地縁で
なく、ブレジネフ擁立に力を貸しつつ形成されたものである。
ここから、個人崇拝が生まれる。かつての、レーニン、スターリンのように、
ブレジネフも崇拝と称賛の対象となった。しかしここで、マルクスの言葉が思い
出される。「歴史は繰り返す。最初は悲劇として、二度目は茶番として」
ブレジネフ崇拝は、ソビエト国民の間に、哄笑と退屈を持たらした。
トップを巡っての闘争は、世界の前に隠す事ができない。
最大のチャンスを持っている者は誰か。もっとも強い者か、もっとも有能な者
か？ 最も有利なのは、政治局のメンバーの中で、とくに利口と見えず、無害と
思われる者である。
1920年代、スターリンはそう見えた。スターリンの死後、強いマレンコフに対
してフルシチョフもそう見えた。フルシチョフ失脚後、シェレーピンが強い男と
見なされた。封建時代、領主はできるだけ弱い者を王座に据えようと努力してき
た。それと同じ事が、ここでも言える。実権を握っているのは、王ではなく領主
である。
ブレジネフvsシェレーピンの権力闘争
アレクサンドル・シェレーピンの経歴。モスクワ哲学文学歴史研究所で勤務、
やがて同所のコムソモール委員会書記になる。大戦中、コムソモール・モスクワ
市委員会メンバーとしてスパイ＆広報活動に従事。女学生ゾーヤ・コスモデミヤ
ンスカヤをタニヤ名で派遣。ドイツ軍に捕えられたゾーヤは、モスクワ近郊ペト
リシュチェーヴ村で首を吊されたが、最後にこう叫んだ。「スターリンは私達と
ともにある。スターリンがやって来る」
ゾーヤ、死後、ソビエト国民英雄として称えられる。その上にキャリアを築い
たのは、娘の母親と、ほかならぬそシェレーピンだった。
著者の知人の目撃談。コムソモール中央委員会第一書記Ｎ・Ａ・ミハイロフの
執務室に、スターリンから突然の電話。ゾーヤを選抜したのは誰かと尋ねて、こ
う言う。「なかなかいい青年ですね、目をかけてやらなくてはなりませんよ」
シェレーピン、コムソモール・モスクワ市委員会第一書記、コムソモール中央
委員会第一書記、ＫＧＢ議長、党中央委員会幹部会候補にまで昇り詰める。同時
に、中央委員会書記、閣僚会議副議長であった。シェレーピン、同時に家臣団を
着々と結成。
シェレーピン、腹心セミチャースヌイ、フルシチョフ失脚を組織的に画策。ピ
ツンダ滞在中のフルシチョフを世間から遮断して幽閉、さらに、幹部会総会でフ
ルシチョフに直接に辞職を勧告。
中央委員会決議、シェレーピンを第一書記に任命の予定。ただし、反フルシチョ
フ謀議を隠す為、一時的にブレジネフを擁立。
独裁的な性格で知られるシェレーピンを、中央委員会幹部会は、最初から嫌っ
ていた。ただフルシチョフ失脚の為、第一書記のポストで釣り、利用してあっさ
り捨てたというのが真相。
ミコヤン、党中央委員会総会でシェレーピン反対演説。この若者は、いろいろ
と面倒を起こすだろうと主張。その背後には、幹部会の同意がある。
シェレーピン、幹部会候補から幹部会に選任。セミチャースヌイ、党中央委員
会に選任。しかし、ブレジネフは第一書記の地位に停まったまま。
第２３回党大会開会式、党大会議長団選出に当たり、シェレーピンの名が挙が
ると、会場から嵐のような拍手が起こる。勿論、演出であり、シェレーピンが野
心を失っていない事を示す。
シェレーピンは、政治局員、党＆国家統制委員会議長、党中央委員会書記、ソ
ビエト閣僚会議副議長を兼務していた。ブレジネフ、党＆国家統制委員会を解散、
人民統制委員会を組織。新議長にシェレーピンは選出されず。ブレジネフ、シェ
レーピンをソビエト労働組合中央評議会議長に任命。このポストは、中央委員会
書記と兼務できないので、そちらは解任。
セミチャースヌイ、ウクライナ共和国閣僚会議議長代理としてキエフに左遷。
同派ロマノフスキー、ノルウェー大使として派遣。
かつて、委員会ビルからクレムリンレストランまで、歩いて五分だというのに、
勿体ぶって高級車「チャイカ」を使っていたロマノフスキー。大使任命に当たり、
著者の下に、おずおずと博士試験受験を申し込み、列に並ぶ。
これによって、シェレーピンに前途はなく、その一派も追放された。しかし、
シェレーピン自身はいつまでも失脚しなかった。
1968、チェコスロヴァキア侵入問題に関して、政治局の中で反対票を投じるシェ
レーピン。このほか、ブレジネフに対して様々な対立行動を取るシェレーピン。
それが許されたのは何故か。それは、ブレジネフ自身が望んだからだと言われる。
シェレーピンが政治局にいる事が、他のメンバーに対して、ブレジネフに逆らっ
てはならぬという事を思い出させたのだ。
このような解任劇は、トップの狭い層でのみ遂行されるのではない。予め、地
方の指導部層にも伝えられる。ベラルーシ共和国中央委員会書記シャウローは、
フルシチョフ解任劇を予め知らされていたと著者に伝えている。
ソビエト共産党中央委員会書記長の独裁は、個人の独裁ではなく、階級的独裁
である。
五 政治局
1912、レーニン、メンシェヴィキ中央委員会に対抗して、ボルシェヴィキ中央
委員会を設立。
1917.10/10、中央委員会、臨時的機関として政治局を設立。
1919.3/、政治局、常設機関となる。ただし、組織局と並ぶ補助的な機関。
スターリン時代、政治局は神々の会議となる。カガノヴィチ、エジョフはスタ
ーリンの人民委員と呼ばれた。ヴォロシーロフ、ジダーノフ、ベリヤ、マレンコ
フも寵に預かった。親友にして戦友と呼ばれたモロトフは寵を失い、ボズネセン
スキーは政治局員でありながら粛清された。
スターリン以降、政治局員どうしで地位の安定が計られる。ソビエト閣僚会議
議長、党中央委員会書記、ＫＧＢ議長、国防相、外相、ウクライナ、カザフスタ
ンの党中央委員会第一書記、モスクワとレニングラードの党中央委員会第一書記、
これらのメンバーの地位は保証されている。
西側の政治家が経歴を築くには、顔を売り、他に抜きんでる必要がある。昇進
の鍵は大衆が握っている。東側では、中央委員会の好意を得てのみ、昇進が可能。
他の指導部の抵抗があってはならず、同僚の眼には無害に映らないといけない。
スターリン、フルシチョフ、ブレジネフ、ゴルバチョフは、愚鈍を装って地位を
築いた。
トロツキー、ブハーリン、キーロフ、トハチェフスキー、モロトフ、ジューコ
フ、シェレーピン、オガルコフ、ロマノフ、グリシン、等のように、有能であっ
たり、派手であったり、次期指導者に恩義を売ったりすると、失脚の原因になる。
ここから誤った結論を引き出してはならない。彼らは決して無能ではない。逆
に、人並以上の能力を持ち、その政治的スケールを隠し、時節を得るまでは自制
する能力がある。書記長ひとりが輝き、他のメンバーは色褪せて見えるが、中央
委員会政治局ならびに書記局のメンバーは、例外なく、優れた政治的手腕を持つ
人間である。
レーニンが作成した「政治局執務規定」による政治局の職務。
政治局会議は毎週木曜日、午前十一時開始、二時間が限度。持ち越しは、金曜
日、もしくは月曜日に延長して討議。議題、ならびに資料は、水曜日午前までに
提出されるべし。
議事録は、中央委員会全員にコピーを配布した後、中央委員会文書庫に保管さ
れる。最後にここの資料は、マルクス・レーニン主義研究所党中央文書庫に移し
て保管される。これらは閲覧を許されず、厳重に保管されている。
六 書記局
1917、中央委員会書記局、ボルシェヴィキとの文書連絡を管轄。
1919.3/、第八党大会にて、政治局とともに常設機関となる。
1920.3/、第九党大会にて、権限を有する書記の下に、独立機関として発足。
スタッフは150人。
1921.3/、第十大会時、スタッフは600人に増加。
書記の数は十人から十二人まで。組織、イデオロギー、国防、工業、農業、国
際共産主義運動などを分掌する。
政治局員は同等だが、書記には様々なヒエラルキーがある。政治局員と兼務す
る書記と、そうでない書記とは、上級・下級ほどの違いがある。
中央委員会書記は、ひとりひとり専用の小書記局を持つ。助手二名と、秘書二
名とからなる。この助手と秘書も、ノーメンクラツーラ階級に属し、クレムリン
食糧特別割り当てとダイヤルとを持っている。助手は主に、部長代理候補であり、
秘書は主に、課長候補である。
ピンクと緑の絨毯を敷いた廊下の奥に、中央委員会書記の事務室がある。人工
皮革貼りの黒い扉を入ると、控え室に書記秘書が座っている。有望な、若い男で
ある。ふたつの扉のうち、ひとつは書記助手の部屋に通じ、もうひとつは書記の
大きな執務室につながっている。この聖域に、贅沢は見られない。無味乾燥で家
族の写真もなく、壁にはレーニンの写真が掛かっている。小卓と会議用テーブル
があり、すみには休憩室もある。
七 政治局と書記局の間の衝突は考えられるか
政治局と書記局とは、双生児の機関である。均衡しているが、非対象でもある。
政治局は特権を有するが、固有の職務はない。対して書記局は、ノーメンクラツ
ーラ階級での最高の職務を担当している。
ソビエト首相の地位は、中央委員会書記よりも高い。しかし、議長を頂点とす
る閣僚会議幹部会は、書記長を頂点とする中央委員会書記局より低く位置付けら
れている。中央委員会書記は全員が最高指導者であるが、閣僚会議幹部会では、
議長と第一代理のみが最高指導者とされる。
一般に、政治局の方が上位であるが、書記局の方が、その手に握る権力の梃子
の数が多い。ここから、様々な衝突が生じる。政治局と書記局とは、かつて、三
度の衝突劇を演じた事がある。
第一は、書記局頂点に立つスターリンによる、トロツキー、カメネフ、ジノヴィ
エフ、ブハーリン、ルイコフら政治局メンバー全員に対する闘争である。スター
リンは敵を分裂させ、政治局を自派で占領する事で勝利した。同時にこれは、政
治局に対する書記局の勝利でもあった。
第二の闘争は、1953-54間の、書記局によるマレンコフ失脚である。マレンコ
フによる書記局と党中央委員会機構の縮小計画は、書記局の長に与し易しと見た
フルシチョフを据えた時点で潰えた。1955、マレンコフは辞任に追い込まれた。
三度目の対決は、1957、フルシチョフ解任劇である。中央委員会幹部会は、八
対四の多数決で、フルシチョフ、スースロフ、フルツェワ、ミコヤンの反対を押
し切り、フルシチョフ解任決議を決めた。すると、書記局傘下の中央委員会機構
が、ジューコフ将軍の支持の下、中央委員会メンバーをクレムリンに招集。党中
央委員会、六月総会にて、幹部会多数派を斥けてフルシチョフ支持を表明。ここ
でも、政治局に対する書記局の勝利。さらに、幹部会多数派を支持した唯一の中
央委員会書記シェピーロフは、罵声を浴び、除名され、追放された。
三戦三勝で、書記局の優位を説くのは間違っている。やはり、書記長を含む政
治局が強い。しかし、危急の際には書記局も政治局に負けない、と言う事はでき
る。
八 中央委員会機構
クレムリンの高官はいかにして多忙に耐えているのか。答えは簡単。トップの
決断は、複雑な作業の最後のひと押しに過ぎない。
九 ＫＧＢ、ソビエトの一政府機関
ブレジネフに関する冗談。ブレジネフ、「演説は十分と言ったのに、二十分か
かったではないか」 書記、「レオニード・イリイチ、鞄にはコピーが二部入っ
ていたのです」
西側でも、大統領の演説はゴーストライターによって起草される。しかし、そ
の人選は大統領が決めるし、その原稿には上司の個性が刻まれる。東では、原稿
は機構によって書かれている。第一稿さえ、多数の手によって書かれ、それがま
た多くの手を経て仕上げられる。
トップは、果てしなく現実から遠ざかっている。その気になれば、各省庁、ソ
ビエト中央統計局、タス通信、通信衛星、ＫＧＢ、各国駐在大使、通商代表、ラ
ジオ傍受機関、外国の共産党などから、自由に情報が得られる。しかし、ノーメ
ンクラツーラ指導者は、特定の情報しか求めない。自分の昇進や地位にしか興味
がない。
加えて、助手や秘書が、情報を整理して、不快なものは斥け、重要なものも短
縮する。
ノーメンクラツーラ指導者は、最高の知性の持ち主として、拍手喝采を受け、
国民が自分のすべてを受け入れる事に馴れてしまっている。これでは、世界を見
ようともしないのは当然の事である。
ノーメンクラツーラ独裁は、軍部独裁や警察独裁に傾く事はなかったのか。そ
の傾向はあったが、阻止された。
トロツキーは軍隊流の組織を施行し、労働軍の結成を呼び掛け、党活動家を批
判した。しかし、スターリン率いる党機構に敗北した。スターリンはさらに、ト
ハチェフスキー元帥、ブリュッハー元帥を粛清し、ジューコフ元帥を失脚させた。
これは逆に、ジューコフの名望を高めた。
1957、夏、フルシチョフの追放逆転勝利は、ジューコフの協力によって為され
た。これを機にジューコフは、軍部独裁体制を打ち立てようと目論だ。
1957.10/、中央委幹部会、ジューコフに対してユーゴスラヴィア、アルバニア
への出張命令。帰国後、ソビエト連邦国防相の地位はマリノフスキー元帥のもの
に。
警察独裁は、短期間ながら実現された。ベリヤ体制、エジョフ体制は、それな
りにＮＫＶＤ（＝ＫＧＢ）恐怖政治であった。ただし、当時でさえ、ＮＫＶＤ部
長の単独ではなく、当該委員会第一書記が弾圧に関与していた。
いかなる独裁も暴力なしには不可能。マルクスとエンゲルスは、多数による少
数への独裁という神話を作ったが、独裁はつねに多数に対する少数の支配である。
さもなくば、それはそもそも独裁ではなく、民主制である。
あらゆる独裁は警察国家である。だが、警察国家は、よく組織された通常警察
を持つものではない。ソビエトの普通警察（＝民警、ミリツィア）は訓練も悪く、
装備も貧弱。治安は西ヨーロッパの方が良い。ソビエトにあるのは、秘密警察で
ある。
チェカ＝反革命およびサボタージュと闘う非常委員会、ＧＰＵ＝政治保安本部、
ＮＫＶＤ＝内務人民委員部、ＮＫＧＢ＝国家保安人民委員部、ＭＧＢ＝国家保安
省、ＭＶＤ＝内務省、そして最後にＫＧＢ＝国家保安委員会。いかに耳障りの良
い名称を付けようと、秘密警察である事に変わりはない。そして、人民は、すべ
てを単純化して「機関」と呼んでいる。
ノーメンクラツーラは機関の功績と人間性を称えて、倦むところがない。初代
所長フェリクス・ジェルジンスキーは、「おそれを知らぬ革命の騎士」と宣言さ
れ、各地のＫＧＢ支部に銅像が建てられている。会議ホールには、ジェルジンス
キーの巨大な肖像画が掛かっている。
チェカはどのような活動をしていたのか。Ｐ・ミリュコーフ教授の証言。
「地方におけるチェカの各部は、それぞれお気に入りの、独特の拷問法を持って
いる。チャルコフでは頭皮が剥がされ、手首からは「手袋」がぬがされた。ヴォ
ロネシでは、拷問にかける者を、裸で樽に入れ、釘を打ち込んで、その樽を転が
した。犠牲者の額に五角の星（＝スターリンの印）を焼き込み、神父には有刺鉄
線の冠をかぶせた。ツァリツィンとカムイシンでは、骨を鋸で切った。ポルタヴァ
とクレメンチュグでは、犠牲者を杭にさした。エカテリノスラフでは、犠牲者を
はりつけにし、石投げの刑にした。オデッサでは、将校をかまどで焼いたり、ば
らばらに引き裂いたりした。キエフでは、すでに風化しつつある屍の入った棺に、
犠牲者を入れ、生き埋めにし、三十分後に再び掘り起こした」
地方でこれ、モスクワのルビヤンカで何が起こったかは想像に余る。1923、イ
リヤ・エレンブルクはルビヤンカについてこう語る。
「連中は家屋を占拠する。普通の家屋である。その後で、中に恐怖を作り出す。
通りすがりの者が、夏の暑さの中でも震え出し、用心深く回り道をする。夜中に
「ルビヤンカ」と叫んで、誰かを揺り起こしさえすれば、彼は素足を見つめ、家
族に別れを告げるだろう。若く逞しい、熊のような男が、小さな子供のようにお
いおい泣きはじめる」
すでにその頃から、レーニンとジェルジンスキーの下で、ルビヤンカは、「血
が凍り、魂が消え失せる場所」「頭布をかぶった青二才が、誰でもチンギス・ハ
ーンになる場所」として知られていた。
十月革命一周年記念日、レーニンによるチェカを励ます発言。「プチブル根性
のインテリどもが、チェカの過ちを指摘して絶叫している」「チェカの過ちひと
つひとつをほじくり出し、ぐずぐず言っている。泣く奴もいる」 しかしその活
動は「決意、迅速な行動、そして最も大切な事として忠実な献身を求めている」
「チェカの業績と敵の攻撃とを対置してみるならば、私は、そんなものは、一文
の値打ちもないプチブルのお喋べりだと断言する」
スターリン時代には、ルビヤンカ周辺には、足早に通り過ぎる、暗い顔付きの
男達がいた。その冷たい淀んだ眼を見れば、連中の職業はすぐに判った。
ノーメンクラツーラ階級にとっては、このような拷問者こそが、「栄光のチェ
カ」なのであった。密告者でさえ、奨励された。密告を奨励する教育さえ行われ
た。
パブリク・モロゾフ崇拝。当時、学生であったパブリクは、富農であった父の
会話を聞いて、それをＧＰＵに密告した。父は銃殺刑になったが、パブリクは英
雄となった。彼の死後、記念碑が建てられ、その名を冠した学校やピオニールが
建てられた。
ＫＧＢを悪魔、神秘的な力を有する機関とするのは間違っている。かのスター
リン時代においてさえ、情報局人事部長パブロフツェフは、「ＭＧＢ（＝ＫＧＢ）
はソビエトの一政府機関に過ぎない」と断言している。
ＫＧＢ職員も、高給取りのノーメンクラツーラに過ぎない。しかし、汚い仕事
をしている事につき、良心の葛藤はないのだろうか。
かつてスターリン時代には、名誉チェカは記章を付けて、堂々と歩いていた。
今、彼らはチェカの前歴を隠す。パーティに、ＫＧＢ職員は呼ばれない。付き合
いがあるのは、検事局、裁判所の連中だけである。
自分達に向けられた嫌悪に対して、ＫＧＢが屈服している証拠がある。機関が
誰かに汚名を着せようとする時、彼はＫＧＢのスパイだという噂を流すのである。
８ 世界支配の要求をいだく階級
「世界支配を狙う者」という表現は、ソビエトのマスコミに普通である。以前
は英仏帝国主義、ついでドイツ帝国主義、さらにアメリカ帝国主義が槍玉に上げ
られている。ソビエト市民は倦怠をもってそれを読む。だが、本当に世界支配を
狙う者は近くに存在するのである。
一 ノーメンクラツーラの侵略的性格
ノーメンクラツーラにとって、もっとも重要なのは権力であり、ついでキャリ
アである。ノーメンクラツーラは強烈な同族意識を持ち、権力と財産の集団所有
者として、その両方の獲得に励む。
国内では、ノーメンクラツーラは直接に生産者を搾取する。しかし、その生産
性は低い。経済効率を高めるには、別のシステムを模索しなければならない。よっ
てノーメンクラツーラは、外に向かって膨張する。
1920、レーニン政府、ポーランド侵攻。ジェルジンスキーの提案、「ポーラン
ド・ソビエト政府」 第一赤色騎兵隊の歌、「ワルシャワを取れ！ ベルリンを
取れ！」 撤退。
1940、ヒトラーとスターリンとの秘密議定書により、ウクライナ、ベラルーシ、
ラトヴィア、リトアニア、エストニア、モルダヴィア、北ヴコヴィナを獲得。詩
人パーヴェル・コーガンの詩、「われらはガンジスのほとりを歩む。日本からイ
ギリスまで、祖国の力を輝かす」
1945、日本の千島列島、東プロイセン、ソビエトに編入。ポーランド、ブルガ
リア、チエコスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、ユーゴスラヴィア、アル
バニア、東ドイツ、オーストリア東部、北コリアがソビエト支配に参入。
特筆すべきは、これが自発的にプレゼントされた事である。東西冷戦の緊張は、
これらの領土の故に発生したのではなく、スターリンのノーメンクラツーラがさ
らに多くを望んだ為に現れたのだ。彼らは東ドイツのみならず、西ドイツも欲し
た。オーストリア東部のみならず、全土を欲した。南コリア、ギリシア、トリエ
ステ、ダーダネルス海峡、カルスとアルダハン、イラン北部、中国、インドシナ、
さらにソマリアを欲した。
1960年代、1970年代には、キューバ、アンゴラ、エチオピア、アフガニスタン、
ベトナム、ラオイ、カンボジアが呑まれた。
四 侵略としての防衛
レーニンは、「ソビエト世界共和国」という言葉を倦むことなく繰り返した。
レーニン埋葬の際、スターリンは、ソビエト共和国を最終目的と見ず、世界勤労
者の勝利、すなわちインターナショナルを強調した。
ノーメンクラツーラにとって、西側の生活水準の高さは潜在的な脅威である。
そこには有り余る自由と物質があり、自国民がそれについて多少は知り、不断に
圧力を掛けねば統制が取れない事をよく知っている。
よってノーメンクラツーラの対外侵攻は、単なる拡張欲ではなく、自らの権力
基盤を守る為にも必要なのである。
植民地時代が過去のものになった後、第三世界は、日本のように西側に呑まれ
るか、キューバのように東側に呑まれるかしか、道は残されていなかった。かつ
ての軍国主義日本は、繁栄と自由を謳歌した。砂糖と娯楽の国キューバは、逆に
軍国主義になり、経済的には破綻している。
ノーメンクラツーラは、第三世界が日本の道を歩む事に不安を抱いている。よっ
て、第三世界に対して、「キューバの道」を押し付けるのである。ノーメンクラ
ツーラにとって、侵略は防衛である。単なる拡張欲なら、捨てる事もできる。だ
が、権力と特権、ノーメンクラツーラ階級の存続が掛かっているので、侵略は執
拗になる。自由を抑圧したノーメンクラツーラにとって、西側の脅威は、内的危
険を誘発するのである。
五 ロシア人は戦争を欲するか
ロシア人は先の大戦で何を経験したか。2000万の死者、1000万の負傷者だ。だ
が、ノーメンクラツーラは違う体験をした。昇進、勲章、特別割り当て、大祖国
戦争英雄の役を演じる優雅な特権を始め、様々な特権だ。さらに、東欧に対する
支配権まで手に入れた。ロシア人は戦争を欲しないが、ノーメンクラツーラはそ
うであるとは言えない。
ノーメンクラツーラは勝利の為なら、自国民を何百万、何千万でも犠牲にする
つもりである。それは、出世の為の手駒に過ぎない。参戦の為にはふたつの条件
が必須である。一、自分達は犠牲者に含まれぬ事。二、自分達の権力が侵されぬ
事。
ノーメンクラツーラは臆病で、勝てる喧嘩しかしない。過去、ソビエトが自分
から侵攻した例を見れば判る。
1920、独立直後のポーランド。
1939、ドイツに敗れた直後のポーランド。
1939、小国フィンランド。
1939、ヒトラーと裏取引した後、ラトヴィア、リトアニア、エストニア。
1944、同盟国を失ったブルガリア。
1945、敗北し、占領直前の日本。
1956、革命に陥ったハンガリー。
1968、無抵抗のチェコスロヴァキア。
1979、発展途上の小国アフガニスタン。
以上、ノーメンクラツーラが侵略するのは、つねに抵抗のない弱小国である。
では、抵抗する国に対しては、どのように対処するのか。
1920、ポーランドの抵抗に合った時、レーニンは急いで講和条約を結んだ。
バルト三国の編入の後、フィンランドは抵抗した。フィンランドは主権を保ち、
人民民主主義国家にさえならずに済んだ。
ｗｗ２、直後、ソビエトはアゼルバイジャン系住民のいるイラン北部に侵入。
抵抗に合って撤退。
1944-49、ギリシアに置いて内乱を扇動、撤退。
ユーゴスラヴィア、チトーに対する憎悪にも関わらず、侵略はなし。
1958、フルシチョフによるベルリン最後通牒、ソビエトにより放棄。
1962、キューバ危機、アメリカの断固たる姿勢の下に撤退。
ノーメンクラツーラは抵抗する者を打ちのめしはしない。ノーメンクラツーラ
が打ちのめすのは、譲歩する者である。
抵抗しなかったドゥプチェクは迫害され、一労働者として辛うじて生きている。
毅然たるチトーに対しては、ノーメンクラツーラはお世辞を振り撒いている。
六 平和共存と緊張緩和と”新しい考え方”
ゴルバチョフは、「アメリカの読者に当てて」という文章の中で、「核戦争の
あとには、荒野に叫ぶ者もなければ、町も村もありません。ロシアの農家も、ニュ
ーヨークの摩天楼もありません」と叙情的に記している。
だが、ソビエト市民に対しては、より具体的だ。「核戦争が帝国主義の側から
仕掛けられた場合、より優れた軍隊とより優れた技術を動員するのみならず、国
民全体が、核攻撃、化学兵器、細菌兵器から身を守るか準備している国は生き残
る。従って、民間防衛のすべての強化、学童、学生、職員、労働者、コルホーズ
農民の訓練の強化が必要である」
七 平和共存の限界
ふたつの体制間に平和共存はないという事をノーメンクラツーラは自覚してい
る。
西側へのイデオロギー闘争の目的は、社会主義の長所を説得する為にあるので
はない。ノーメンクラツーラは、自分達が説得できる相手は、西側の秩序崩壊を
様々な理由から望み、その為、反西側のプロパガンダを真実と見なそうとする小
集団だという事をとっくに理解している。ノーメンクラツーラにとってイデオロ
ギー闘争の主要任務は、臣下や、他国の共産主義者に不断の戦意を目覚めさせて
おき、彼らの眼の前に敵の姿を見せつけて置く為にある。
1939-40、フィンランド冬戦争、プロパガンダ準備がなかった為、ソビエト軍
は苦戦を強いられた。
ｗｗ２、反ファシズム宣伝の行われなかった事が、初期のナチスの快進撃を許
した。ノーメンクラツーラは、この教訓を覚えている。
平和共存は、力関係に左右される。西側の一角が弱くなれば、ノーメンクラツ
ーラは戦争を恐れなくなり、その一角に襲いかかる。平和共存は両体制の力関係
と結び付いている事を、ノーメンクラツーラは隠す事なく認めている。
八 国際舞台における階級的な力関係
ノーメンクラツーラは、世界の力関係は絶え間なく現存社会主義に有利な方に
働く、という神秘的な法則があるという暗示を全世界に与えようと努める。むろ
ん、このような法則は存在しない。フルシチョフ政権の初期、ノーメンクラツー
ラはひとつの頂点に達した。中国との同盟は動かず、世界共産主義も一枚岩で、
ミサイル配備はアメリカに先んじた。だが、その後に拡がった経済格差は、ソビ
エトの大幅な軍事増強によっても埋め合わせ切れない。
だからと言って西側は、隠れた法則のお陰で自由主義圏は勝利する等と信じて
はならない。相手より失敗の少ない者、先を読める者、断固たる者、予備戦力を
投入できる者、彼こそが勝つ。
九 世界的規模における現存社会主義の勝利
ノーメンクラツーラは世界中のあちこちで運試しをしている。
十 世界共産主義運動、ノーメンクラツーラの道具
ヨーロッパは、レーニンによれば、「全力を投じて攻撃すべき、特別の環」で
ある。現在、社会主義圏には世界の工業圏の三分の一が属している。西ヨーロッ
パがここに入れば、ノーメンクラツーラの優位は絶対的に保証される。
アメリカには、いざとなればアメリカ要塞に立て篭もるなどと言う論者がいる。
しかし、アジア、ヨーロッパ、アフリカがノーメンクラツーラに支配され、加え
て、国内における激しい撹乱工作に直面した場合、アメリカ合衆国がいかなる展
望を持てるかを、よく考えてみるべきだろう。
アジア、アフリカに対しては、人民民主主義国家を樹立する。
それが可能でない場合は、フィンランド化を進める。インディラ・ガンジー政
権下のインドがそれ。ノーメンクラツーラは、インドの中国に対する不安を利用
し、この期間、インドをモスクワからの助言に従わせる事に成功したのである。
アジア・アフリカ諸国の、生産力、生活向上の質は問われない。問われるのは、
彼らが西側モデルを目指すか、東側モデルを目指すかという事である。だから、
第三世界指導者へのノーメンクラツーラの評価は猫の目のように変わる。
イラク、シリアにまたがるバース党は、長くファシスト的であるとし批判され
たが、現在では革命的民主主義の党と評価されている。カダフィはファシスト、
反動、狂信者と非難されたが、今では進歩的で賢明な政治家とされている。始め
は喝采を浴びたマリとギニアは、中国の影響が強いので懐疑的に見られている。
中央アフリカのボカサ大統領は、党書記長を名乗りさえすれば良かったのに、
皇帝を自称した。これで、この国の社会主義化は放棄された。
ラテン・アメリカはアメリカの勢力圏と見なされ、特別の地位を占めている。
キューバは勿論だが、チリにも期待が寄せられる。ラテン・アメリカに南北に長
く延びたチリは、この地形によって、共産主義パルチザンの基地として並外れて
適切。ニカラグア、エルサルヴァドルでも運動が進められている。
世界共産主義運動に属するのは、7700万人を擁する、94の党。
共産主義運動において、一枚岩的統一は存在した試しがない。それは、トロツ
キーの第四インター、ユーゴスラヴィアの存在を無視している。
中国、ユーゴ、アルバニアは、ソビエトから訣別している。
イタリア、フランス、スペインの共産党は自立しており、ユーロコミュニズム
の幻想に耽る事が許された。
外国の共産党指導部は、ノーメンクラツーラに資金援助を期待する。ソビエト、
ならびに社会主義圏の訪問の際に、特権の享受に預かりたいと望む。では、諸国
の指導者に、社会不正と闘い、人民の生活向上に尽力する理想主義者はいないの
だろうか。
ソビエト、ならびに他の社会主義圏では、理想主義的な共産主義者はとうに死
に絶えてしまった。私は、長年、ソビエトで暮らしてきたが、信念を持った共産
主義者に出会ったのは、西側に来て初めてである。西側には、まだいるのである。
だが、西側の共産党指導部の中にそのような人物がいるかどうかは、私には判ら
ない。
様々な国で私がかかわった、多数の共産党指導者は、ソビエト共産党の路線変
更の度に、いそいそと従う心情と、戦術・宣伝への飽く事なき関心を見せた。民
衆の生活など、ほとんど無関心だった。
外国の共産党幹部が、ソビエトの路線変更に唯々諾々と従うのを見ると、その
人間性に疑念を抱かざるを得ない。かつてスターリンは英雄だったが、後に批判
された。チトーは英雄とされたが、ファシスト、スパイと落としめられ、名誉回
復がされたが、直後に反動とされた。彼らは単純なのではない。彼らはただひと
つの事、ノーメンクラツーラの援助なしにはその国で政権を取る事はできないと
いう事を確信しているのである。
彼らがノーメンクラツーラを必要とするのは判る。だが、その勢力は弱小で、
政権を握るチャンスもない。彼らを援助する事は、ノーメンクラツーラに取って
引き合うのだろうか。それは、引き合うのである。
第一に、ノーメンクラツーラの権力奪取には、あらゆる国に社会主義革命が勃
発し、共産主義政党が権力を握るという予想図が描かれている。この図式を成り
立たせる為にも、世界の共産主義政党は必要なのである。
第二に、外国の共産党指導部は、情報収集拠点として機能している。ノーメン
クラツーラのキャリア形成には、指導部からの疑惑をかわす為、現地住民との接
触を避けた方が得策という弱点がある。西側に広まっている見解と違い、ソビエ
ト大使館は、赴任先の国について不充分な情報しか持っていない。情報源は、ほ
とんど新聞で、モスクワでも読めるものだ。対して、現地共産党の指導部は、そ
の国の市民であり、広範な住民と接触がある。大使館職員の口癖に、「友人と相
談しなければなりません」というのがある。ここでの友人とは、現地共産党指導
部の事である。
その役割は、助言と情報提供に停まらない。
1960、ソビエト共産党中央委、ソビエトの各諜報機関に対し、外国の共産主義
政党の党員の中からスパイを募集する事を許可。
すべての国にある共産主義政党の存在は、全世界において、同時に宣伝キャン
ペーンを組織し、国際的に並列させるという、思いがけぬ可能性をノーメンクラ
ツーラに示した。
数百万部にのぼる共産党系新聞は、ソビエト共産党中央委員会がすでに決定し
たある事柄を、世界中の人民が「要求した」という見せかけを作り出す。
この宣伝キャンペーンを、自然発生的な大衆運動と見せかけるには、非共産党
員を引き入れる必要がある。通りすがりの暇人よりは、公的な地位に就いている
人、できれば共産主義に対して距離を置いている事が知られている人であるほど
好ましい。この場合、その人物の支持層、共産主義からその人物に到る中間地帯
の層、そして本来の共産主義の支持層が運動に加わる。すると、好奇心の強い大
衆の流入も大きくなる。
世界共産主義運動によって作り出されたスローガンが幾つかある。「平和！」
「軍縮！」「核兵器禁止！」さらに「汚いベトナム戦終結！」「他国領土からの
外国軍部隊の撤退！」
1968、ソビエトのチェコ侵入以来、最後のスローガンは聞かれなくなった。こ
のキャンペーンは、平和や軍縮の為なら何でも受け入れるというものではない。
試しに、「軍縮、戦車禁止」というスローガンを出してみる。ヨーロッパの人は、
とりわけ戦車に対しては不安を抱いていると説明すれば、即座に、あなたは挑発
的で、反動で、緊張緩和の敵で、冷戦派で、ファシストであると非難を浴びる。
戦車はソビエトの、ヨーロッパ戦線における主要兵器である為である。
ノーメンクラツーラのスローガンは、上辺は、平和的かつ民主主義的であると
いう見せかけを保つ。しかし、根底はノーメンクラツーラ的なのである。その利
害に反する事は、国際的キャンペーンのスローガンにはならない。
西側でこれらのスローガンを支持する、非共産党系の人物についてはどう評価
すべきか。レーニンは彼らの事を、「役に立つ白痴」と呼び、社会民主党員モマ
ーは、「トロイのロバ」と呼んでいる。
世界共産主義運動は、ソビエト共産党中央委の決定に従って、全世界における
キャンペーンを組織し続けている。こんな事ができる政治勢力はほかにはない。
世界共産主義運動は、現代でもっとも影響力のある勢力であるというのは本当で
ある。
外国の共産党は、ソビエト、ならびに現存社会主義国の政権党から、たっぷり
と支援金を貰う。たいていは、銀行を通さず、特使を使って現金を渡す。ソビエ
ト系銀行の世界への支店網の拡大によって、口座による振替も多くなっている。
事実そのものは、すでに公然の秘密。スイス労働党と、その下部組織スイス・
ソビエト協会は、三ケ月ごとにベルンのソビエト大使館で金一封を受け取ってい
る。それは年額40万スイスフランである。ドイツ共産党、オーストリア共産党に
も、寄附の名目で巨額の金額が振り込まれている。
外国の党指導者は、ソビエト・ノーメンクラツーラから高給を支払われる家臣
である。皆、それぞれの国では不十分な暮らしをせず、ソビエト、ならびに社会
主義圏を訪れる際には、国有別荘、運転手付き乗用車、クレムリン病院、国有サ
ナトリウムが利用できる。
ノーメンクラツーラは外国の家臣に幾ら報酬を払っても高すぎるとは思わない。
その代わり、従順でない場合は、この家臣を許しはしない。スターリン時代、ゴ
ーリキー通りのコミンテルン専用ホテル「ルックス」では、外国共産党指導者の
大量逮捕と処刑とが行われた。
今日では、そのような手法は用いられない。外国指導部の切り捨てには、つね
に新しい駒を用意している。
チェコスロヴァキアの政治家スムルコフスキーに対して、ブレジネフはドゥプ
チェクへの反対決議を要求し、スムルコフスキー自身が第一書記に就くように要
求した。彼が反対すると、その代わりはちゃんといて、それが今もプラハで政権
を取っている。
搾取なき、階級なき社会の実現という理想は美しいが、そこには、ノーメンク
ラツーラおよび外国の家臣との間に何の共通項もない。クレムリンに従順な正統
派共産党こそ、本物の反共主義者である。
十一 世界戦争への道
ソビエト指導部は自国民の生活水準の引き上げに腐心しているので、ヨーロッ
パへの侵略は不可能。という主張は、次の事実を見ていない。
一、ノーメンクラツーラは帝政ロシア領を保持し、さらに拡大した。二、ノー
メンクラツーラは東欧、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ諸国の一部を勢力下
に置いた。三、ノーメンクラツーラは絶えずアメリカと競争し、その地位を崩そ
うとする。
この、ためらいなく階級の利益獲得に邁進する集団は、世界のあちこちで軋轢
を生み出さざるを得ない。この階級は、後戻りの利かぬ情況を作り出して、自ら
墓穴にはまって行く。その結果は以下の通り。
一、ノーメンクラツーラの凶暴な支配欲は、ソビエトの国際的孤立を持たらし
た。東ヨーロッパは、従属国であるが、同盟国ではない。チェコ、ルーマニア、
アルバニアにも駐屯軍がいる。中国は、かつての盟友から、もっとも危険な敵に
なっている。ノーメンクラツーラはこの孤立を、アメリカの封じ込めのせいにす
るが、実際は、当然の成り行きである。
二、国際的な力関係は、ソビエトに不利に働きつつある。
三、こんな中、ノーメンクラツーラは西ヨーロッパの屈服と寛容にすがろうと
している。ノーメンクラツーラ高官は過った情報しか受け取らず、西ヨーロッパ
の軟弱を勝手に想定し、その降伏を確信している。ノーメンクラツーラの膨張欲
が西ヨーロッパのどこかに向かった時、世界は新しい戦争に突入する。
ショーヴィニズムと大国主義の陶酔は、たちまち頭を狂わせる。ソビエト市民
にも多いが、過半数ではない。現代人は、国の偉大さは、その領土拡張にあるの
ではなく、住民の幸福と自由にある事を心得ているからだ。国民が逃げ出さない
よう国境を閉ざさねばならない国に、いかなる偉大さがあるのか。ソビエト国民
が自由でなく、貧しい事を世界が知っている時、いかなる偉大さがあるのか。１
９３０年代、４０年代の軍国主義日本と、今日の繁栄する日本と、どちらが偉大
なのか。ニセ大国・第三帝国で再び暮らしたいかどうか、西ドイツ国民に聞いて
みるが良い。世界支配を指導部がめざす時、いかなる偉大さもない。いかなる点
でも、世界支配は住民の為にはならない。
世界支配の企ては失敗する。アレクサンダー、アッティラ、チンギス・ハーン、
ナポレオン、ヒトラー、誰ひとつとして成功していない。これからも成功しない
だろう。ノーメンクラツーラも。
９ 寄生階級
「あの戦争で、俺達は皇帝を相手に戦った。やっこさん達は、貴婦人みたいに
上品に、俺達を指図した。俺達は石炭を掘り、鉄を溶かした。えらい値が付いた
が、賃金は安かった。やっこさん達は、公用車ポベダを乗り回し、窓越しに怒鳴
る。”もっと沢山、もっと早く！” やっこさん達は民衆を指図して、勝ち戦に
つぐ勝ち戦を続けた。やっこさん達は、ポベダをヴォルガにきりかえ、ヴォルガ
をジムにきりかえ、ジムをチャイカにきりかえ、チャイカをジルにきりかえた。
俺達は懸命に働いて、何も手元に残らなかった」 Ａ・ガーリチ著「おれが奪り
もどすとき」 フランクフルト、1977刊。
ここでは、ノーメンクラツーラの寄生性とモラルを取り上げる。
一 ノーメンクラツーラの寄生性
本来、すべての階級は、寄生的である筈がない。どの階級も、生産過程の中で、
何らかの役割を演じている。ある階級の寄生性は、その階級の社会的有効性の低
下によって成立する。その過程は、寄生階級の特権と取り分が拡大するのに平行
して、この階級からの社会奉仕が低下する事によって起こる。
四 地区委員会書記
ノーメンクラツーラの寄生性はどうして成長するのか。個々人は、有能で積極
的な人間である。支配階級の寄生の増大は、その独占的地位によって為される。
レーニン著「帝国主義論」より、「すべての独占が、停滞と怠慢へ傾斜する事
は避けがたい。独占価格が導入されると、技術的進歩をはじめあらゆる進歩、前
向きの動きへの自発性は、すべて失われてしまう」
つまり、レーニンは、階級支配の原因が、資本の独占のみならず、あらゆる独
占に原因があると見ているのである。経済、政治、イデオロギー、すべての領域
で、独占を脅かす競争がなくなればなくなるほど、ますますはっきりと支配階級
は寄生性を強め、社会のやっかいとなり、社会の生命力を吸い取り、その代償と
して何ひとつ与えぬ硬直した階級へと変貌してゆく。
理論上、ノーメンクラツーラは、資本主義の独占や腐敗を排除する為に登場し
た。確かに、腐敗や汚職はない。しかし、寄生階級という点では、ノーメンクラ
ツーラは資本家を遥かに凌いでしまっている。
ノーメンクラツーラは搾取階級であり、その生活は他の階級の労働によって支
えられている。ノーメンクラツーラは数百万の職員を意のままに動かせる。内政
で、思い通りにならない事はない。
しかし、ノーメンクラツーラ支配の代償は、とてつもなく高価である。
第一の損失は、人命喪失である。Ｉ・Ａ・クルガーノフ教授の試算によると、
1917−1959の約四十年間、革命や恐怖政治に揺れた場合と、まったく正常な人口
動態が見られた場合の差は、11000万である。この半分以上が、殺害、処刑、飢
餓に倒れた人の数字で、残りは、その亡霊子孫である。
第二の損失は、この国の貧しさである。ノーメンクラツーラは原始的搾取に夢
中になり、経済の発展や国民の福祉を顧みなかった。
第三の損失は、ノーメンクラツーラの消費の増大である。食費、別荘に停まら
ず、この階級に奉仕する組織、資材が膨大。軍事機構、警察機構、思想機構がそ
うであり、これは、国境を越えて活動する。
第四の損失は、ノーメンクラツーラによる自由の粛清と思想弾圧である。これ
が、外国との知的接触を妨げ、科学技術分野での遅れを招いている。
これらは、途方もなく大きな代償である。では、代わりにノーメンクラツーラ
がこの国に持たらしてくれたものは何だったのか。
重工業の発展は、プラスの事実である。だが、重工業は、軍需産業の前提とし
て作られたもので、ノーメンクラツーラ支配の副産物である。
住宅費、交通費が低廉で、医療費も無料。だが、これらは低い人件費に支えら
れている事だ。
重工業と低廉な生活費、これだけでは、人命の損失、国民の貧困、自由の抑圧、
地方の後進性を帳消しにはできない。
社会主義の現実をお眼にかけよう。時は1936、スターリン大粛清の前夜、場所
は西部都市コゼルスク。
五 デニス・イワノヴィチの一日
コゼルスク地区委員会書記ピョートル・ミハイロヴィチ・デメノク、地区委員
会第二書記ジョゼフ・ペトロヴィチ・バロベシコ、西部地方内務人民委員部地方
部長＆国家保安部隊少尉Ａ・ツェブル。このコゼルスク指導部三人衆の動向を追っ
てみよう。
ソビエトで、党から除名される事は、その党員にとって破滅を意味する。党員
でなくても生きてはいける。だが、除名された者は危険分子の烙印を押され、時
によっては死を招く事態になりかねない。
除名の脅しで、ノーメンクラツーラは党員を意のままに操っている。1936.4/17、
デメノク、５名を除名。同、5/8、デメノク、党員46、党員候補36を除名。こ
の当時の除名は、殺人を意味する。記録、「富農出身のプゼニンは、内戦時代、
赤軍からの離脱を理由に除名」 赤軍からの離脱は、即、銃殺。デメノクは自分
が何をしているか、よく承知している。書類上での除名は、肉体的絶滅を意味す
るのである。
地方委員会第一書記ルミャンツェフ、1936.1/21付、地区委員会書記あての極
秘指令。「除名された者に対し、貴下はどんな措置を取られたか。除名された者
のうち、危険な人物は何人いるか」 4/28付、極秘書簡。「党から除名された者
は、特別に取り締まるよう」
この指令に基づき、地区書記デメノクは、人を収容所列島に送り込む密告を、
夢中になって書き綴る。
「除名された人物クプレーンコは、革命前も今も、労働者の生活に変わりはない
と発言した。 デメノク」
「除名された人物マトヴェーフは酒乱で、誠実で勤勉なミーシン議長の追い出し
を計っている。さらに、マトヴェーフは元富農である。 デメノク」
「コルホーズ農民フロモフの住居で、トロツキーの肖像を発見。 デメノク」
「今から十年前、名前は忘れましたが、党員コヴァリョーフなる者が、トロツキ
スト派の勧誘を行い、それらしい演説を行っていた事を思い出しました。 デ
メノク」
「これも十年前、カルクゼヴィチなる人物が、スターリンを中傷する演説を行っ
ておりました。 デメノク」
デメノクは、1926時点で、カルクゼヴィチを除名している。党員だったカルク
ゼヴィチは、地位を落とされて鉄道保安要員として働いていた。その十年後、政
治的生命を絶った人物を、さらに肉体的に葬ったのである。デメノクは、机上殺
人者である。
事は単純ではない。デメノクは、すでに除名した人物の近況報告を、ツェブル
から受け取っていたのだ。ツェブルの報告書の引用。
「極秘、除名者関係書類、コゼルスク地区。ドミトリー・イワノヴィチ・ラグー
チン、1898生、40才の妻、16、14、11の三児を扶養。除名まで伐採ソホーズ配給
部長を勤める。現在、木材倉庫守衛。妻は、師範学校掃除婦」
この男が、すでにデメノクに痛めつけられた事は明らかだ。党から除名され、
職場を追われ、今は倉庫の守衛で、家族を養う為、妻は掃除婦として働いている。
この虐げられたラグーチンを抹殺する為、さらに次の報告が為される。
「ラグーチン、伐採ソホーズ時代、同僚との会話でボルシェヴィキを批判。さら
に、彼はピストルを所有している。 ツェブル」
ここからは、ツェブルの報告を引用。
「除名者プゼニン、妻、二児あり。富農出身、赤軍を脱走。 ツェブル」
「コルホーズ農民ステピン、妻、三児あり。勤務中に飲酒、労働態度は消極的、
履行義務を達成せず。 ツェブル」
「除名者コロトコフは、トラクター技術学校校長時代、技師カパツィンスキーな
る人物を雇ったが、この人物には贈賄の前歴があった。1934、コロトコフは修理
に手間取り、地区所有トラクター隊の出動を阻害した。コロトコフは元富農の父
と兄がおり、この援助で家を買った。その住居で、除名者カーツやダニールキン
が集会を開いている。何を話しているかは不明である。 ツェブル」
読者は、この報告を笑うかも知れない。だが、笑い事ではない。このちっぽけ
なノーメンクラツーラ成員の手に、人間の運命が握られているのであり、このけ
ちな男が、いかにひどいやり方で人間の運命をぶち壊してしまうかが見て取れる。
「元党員グトヴェッツ宅を家宅捜査、地区委員会財政主任の発行した適確証明書
が発見された。グトヴェッツは、これを鼻にかけるつもりである。 ツェブル」
さらに、デメノク書簡。
「鉄道勤務ポロスヒン、トロツキスト運動に参加。 デメノク」
「コルホーズ農民ヴォルコフ、反革命で有罪宣告を受けた兄弟を熱心に弁護。
デメノク」
「給油所管理係トルビン、かつてトロツキズム容疑で告訴され、容疑を逃れたが、
再審要。 デメノク」
「レオニード・ポメランツェフ、休暇施設に勤務。トロツキスト容疑で逮捕され、
釈放されたが、徹底追及さるべき。 デメノク」
「医師ランドゥイシェフ、ならびに建築中等専門学校校長クリモフ、両者はポク
ロフスキー村ソビエトで勤務。夜間、身元不明の連中と会合。 デメノク」
だが、デメノクお気にいりのならず者については、珍しく救いの手を差し延べ
ている。
スロボドゥスク村コルホーズ議長フィリープ・アルドニン、コルホーズ資材の
横領とコルホーズ農民女性二人への強姦罪で二年の刑。
これについてデメノクの弁護、「当コルホーズは安定しており、社会主義的発
展の適正な路線を歩んでおります」 「アルドニンは困難な物質的諸条件に影響
され、約200ルーブリ相当のコルホーズ資材を横領した。しかし、当コルホーズ
では、彼は、彼の稼ぎ出した生産物から何も入手しなかった事を考慮すべきであ
る」 「アンナ・ゼーニナ暴行未遂については、地区委員会でこの問題を検討し
ましたところ、かかる事件でアルドニンを告訴する根拠はまったく存在しません。
ゼーニナ自身、当夜は熟睡しておったと供述しております。しかし、ゼーニナは、
法廷ではまったく別の発言を行ったのであります」 おそらく、ゼーニナは、法
廷では本当の事を言ったのである。「小官は、アルドニンに寄せられた非難を、
ご賢察のうえ調査し、考慮に入れて下さるよう要請します。1936.10/21、デメノ
ク」
今も、同じ事が行われている。書簡が、電話に変わっただけである。そして、
ソビエトの「独立」した裁判所が、ご賢察のうえ調査し、考慮に入れているので
ある。
スモレンスク文庫より、1936.8/4、コゼルスク地区委員会事務局会議議事録。
上記三名のほか、地区新聞のカフシェンコ記者、地区執行委員会議長クルトフ、
地区委員会総会、党オルガナイザーらが参加している。
コロヴォフ、「物資調達機関に勤務するコージン、彼はトロツキストに甘かっ
たので戒告されている。コージンを監視すべきである」
地区検事コチェルギン、「建設中の鉄道には、かつての富農や経営者が多く働
いている。彼らは労働者を味方に付けている」
地区委員会書記ギリン、「ピオニールの活動計画に反革命の疑いあり」
人民教育地区責任者コロヴィン、「わが地区のトラクター基地にトロツキスト
集団がいる。ここで仕事をしていた女性同志セルギジュクは何か知っている筈だ」
「党員デイキンは、交際嫌いで、演説もしない」
地区警察署長アントノフ、「当地区に身元不明者が多い。身分証を改める必要
あり。山火事の発生について、曖昧な返事をした鉄道責任者ポロスヒンについて
は何らかの措置が必要」
地区委員会指導員フェドコ、「この地区には、流入者が多い。それは、この地
区が、ボルシェヴィキ的警戒心がまだ高まっていないからだ」「コルホーズ議長
マチューシン、彼はかつてトロツキズム文書を入手した事がある」
最後にデメノク発言、「党中央委が敵を物理的に絶滅する決定的な措置を取る
よう要望する。我々の生活は改善され、これまでよりずっと楽しくなっている」
ここにあるのは、魔女狩りの空気である。デメノクは次のような発言もしてい
る。「カメネフ、ジノヴィエフ一味にとって銃殺は軽すぎる。鎖につないで引き
回し、墓穴を掘らせて縛り首だ」「敵の一味に何を喰わせよう。一週間、ニシン
攻めだ」
コゼルスク地区の生活は、本当に楽しくなったのか。だが、別な声も聞かれる。
ポトロソヴスク村ヴォエヴォジン発言、「私はトロツキーについては知らない。
だが、君らは我々をごまかしている。靴も、衣服も、手に入らないではないか」
マクリンスキー村コルホーズ、エレミア発言、「牛も豚も羊も小屋も農場も、
あなた方に差し出さなきゃならない。何が楽しいのか」
グルシンスキー村コルホーズ、元党員候補サヴェリエブナ発言、「以前は地主
の所で働いて、ちゃんと銭を貰っていた。今はコルホーズで働いて、何も貰って
いない」
マトチンスク村コルホーズ、ゴレリコフ発言、「ひとの金で腹を肥やしている
のが人民委員だ」
これらの発言は、デメノクの記録から採録したものである。五年後、彼らは進
撃したきたドイツ軍を歓迎し、さらに、数万の男がヴラソフ軍団の反共産主義部
隊に志願兵として入隊した。
現在のノーメンクラツーラはどうか。架空の人物、ソビエト共産党中央委員会
課長デニス・イワノヴィチ・ヴォフーシュの一日を描こう。
デニス・イワノヴィチ・ヴォフーシュはスイス出張から帰ったばかり。奥さん
が朝食の支度をする間、体操をする。AM08:35、公用車が迎えに来る。運転手が
座ったままなのは、民主主義。
中央委員会ビル、事務室。第一副部長と、案件につき相談。リスクは回避した
いが、目立とう精神は抑制される。プラウダを読む。第一副部長からローマ行き
を誘われるが、仕事が多いのでと断る。
書記長に案件の撤回について電話、付属担当官の応対。
部屋に、魅力のない娘が情報ファイルを持って入ってくる。ここでは、不祥事
が発生しないように、こんな娘ばかりが勤めている。上の連中は、ある目的の為
に、それぞれバレリーナを抱えている。彼女らはヴォフーシュには、まだそぐわ
ない。
最近の事例。学術関係の若い党員候補が奨学金を受けてプラハに留学。しかし、
その妻には出国許可が降りなかった。この案件が出国部に回されるか否かは、ヴォ
フーシュの一存にかかっている事を、彼女は聞き及んだ。その女性、ヴォフーシュ
を訪問。彼女は、内気で上気しやすく、眼は灰色で、成熟した肉体を際立たせる
服を着け、胸には青いトルコ玉のネックレスをしていた。ヴォフーシュ、「これ
は難しい問題で、勤務中にかかる暇はない。勤務後ならこの要件を扱えるが、夕
方以降はあなたはここに入れない」 そこで彼女は、プロフソユーズナヤ通りの
彼女の自室にヴォフーシュを招いた。ヴォフーシュは、トルコ玉のネックレスを
外しもせず、その青い玉を、無造作に鈍く輝く女の陽焼けした肌の上にそのまま
置いておいた。という次第で、彼女の眼差しは決して本当の眼差しではなかった、
という事は言っておこう。それでも良いではないか。現在、彼女はきっとあの事
を喜んでいるに決まっている。いま、彼女はモルダウ河畔を散歩しているのだ。
いや、旧市街をめぐる環状街かも知れぬ。
仲間内では、ことはもっと簡単だ。ヴォフーシュは中央委員会サナトリウムに
いた事がある。そこで、彼は党ヴォロネシ地方委員会から来ていた精力的な女性
指導員に出会った。眼差しなど問題ではなかった。ただひとつの問題は、彼女と
一議に及ぶ事だけだった。
マルクスも、これがお嫌いではなかったのだ。かつて、代表団とともに西ドイ
ツを訪問したヴォフーシュ。トリーアのマルクスの生家で、マルクスに愛人がい
て、庶出の息子がいて、認知されていない事を知った。エンゲルスについては話
にならない。エンゲルスは、二人の姉妹と一緒に暮らしていた。レーニンには、
イネッサ・アルマンドがいる。
午前１１時、ヴュッフェで第二朝食。二、三人が並んでいるだけ。念入りな給
士、チョコレート・ボンボンの持ち帰りも可。
シュヴェゾフの訪問、ソビエト・ブルガリア生物学委員会結成についての案件。
候補の中の二人のユダヤ人、一人は削除、もう一人は穏健なユダヤ人に代える。
課内ただひとりの女性ジナイダ・イワノヴナの訪問。夫はコムソモール勤務、
彼女はナウカ出版社の出版計画を改める仕事。七冊の本を出版計画から外す事を
提案。有能、きっと夫が、このリストをルビヤンカのコンピューターに掛けてい
るのだ。
PM01:15、昼食。腹は減っていないが、ぐずぐずしては居られない。食事の時
間は４５分。共産主義者としての責務、党から１分たりとも労働時間を盗んでは
ならぬ。食後に、自室で寛げば良いのだ。
中央委員会専用食堂新館にて、馬乳、海草サラダ、仔牛肉、トースト、デザー
ト。自室で３０分の休憩。
ルムンバ大学長からの電話、これから副学長の訪問があると牽制。この大学は、
途上国と日本の学生の為の指定大学。学長は次官経験者で、副学長はＫＧＢ代表
で、互いに睨み合っている。副学長の交代人事につき、ヴォフーシュはどちらに
も味方であると思わせて置かねばならない。
現副学長の訪問。ヴォフーシュ、「教育とは、学生集団の中で共産主義モラル
から逸脱しない雰囲気を作る為にある」「当局では、ルムンバ大学におけるソビ
エト男女学生の不行跡の情報を入手している」「あんたの所では、乱婚が行われ
ているんだ」
こう脅した上で、この問題は部局内で処理すると宥める。君には助けが必要だ
と言うと、副学長の顔から傲慢さが消え、感謝の念でいっぱいになっている。こ
こで提案、「大学が、文部省を通じて、新副学長ポストに当機関の代表を請願し
てくれれば、それは受理される。すると、君の地位も固まる」
ついで、学長に電話。「あなたが希望すれば、私の所から同志をひとり派遣で
きる」 学長の感謝。
ヴォフーシュ、第一副部長を訪問。中央委員会メンバーによって、大学を強化
する事を提案。シャバノフの派遣を提案するヴォフーシュ、第一副部長、あの大
学は大きいから出世の道が開けると肯定。しかし、君らはどうしてうまく行かな
いのかと問う。第一副部長はごまかせない、何もかもお見通しだ。低能のインテ
リが、政治局は馬鹿で気狂いでと噂するが、間違いなく彼らは天才だ。
帰路、車中で、プラハへ去った女の事を思い出すヴォフーシュ。なぜ、あの女
の事を思い出すのか。デニス、本当の事を言え。あの女は、嫌悪の情を込め、い
やらしい虫けらでも見るように、お前を見つめた。その眼には、無力感もあった。
だから、怒るに怒れなかったし、あの女を裏切る訳にも行かなかった。なんで、
あんな事を思い出すんだ。あの、ちゃちな奨学生の女房の王女然とした態度。あ
の女は、中央委員会課長のお気に召した事を誇りにして良いくらいなのに。
多くの人が、ヴォフーシュを無力な眼で見つめた。陳情に来る様々な人達、党
から除名された人達。ヴォフーシュの手で除名され、中央アジアへ左遷されて健
康を害して死んだ青年の母親は、ヴォフーシュに向かって、「人殺し！」と叫ん
だ。
あるべきは、群衆には無力感を持たせ、我々は力を維持する事なのだ。
夕食は自宅で。鮭の燻製、キャビア、チーズ、焼き肉、コニャック。
中央委員会課長は、文部省や「映画の家」での、非公開映画を鑑賞する事が許
されている。これは外国から借りたフィルムを、非合法にコピーしたものだ。こ
こには、ノーメンクラツーラや芸術家が多い。資本主義圏に外貨を払うような馬
鹿な真似はしない。
中央委員会ビルでも週に一回、一般大衆に見せない外国映画が上映される。だ
が、それはタイピストや女性秘書のものと決まっている。そこに並ぶ事は、ヴォ
フーシュには出来ない。
外で夕食を取って、細君とともにボリショイ劇場へ行く事もある。しかし、劇
や音楽には飽きている。仕事がら、各国代表の随伴で触れる機会が多いからだ。
エレベーターで寝室に昇るヴォフーシュ。ヴォフーシュはこんな毎日で、一般
的なソビエト市民の十倍の給与を貰い、様々な特権、待遇を手に入れているのだ。