Themistocles

テミストクレス

　　プルターク英雄伝、河野与一訳、岩波文庫、1952。

　テミストクレス（＝Themistocles）の家柄は、決して自慢になるものではない。父ネオクレスは、アテナイでは無名で、母方は庶出（＝妾腹）である。
　ヘラクレスに捧げられたキュノサルゲス体育場は、庶出子の利用する施設とされたのは、そもそもヘラクレスが神の庶出子と見なされた為である。テミストクレスは、嫡出子を連れてここを利用し、その事によって、嫡出子と庶出子との区別をなくした。
　子供の頃から活発で、政治を志す傾向があった。授業が終わっても遊ばず、演説の真似事をしていた。青年時代はムネスフィロスに師事したが、この人は、ソロン以来のソフィア（＝学問）の伝統を守る人である。
　政治的名声を求めたテミストクレスは、アテナイの有力者に対する敵意を大胆に表明した。その中に、アリステイデスがいた。ふたりは、ステシラオスという美少年をめぐって争いが激化したとも言われている。アリステイデスは温和で高貴で、民衆の機嫌取りはしない性格だったので、テミストクレスには疎ましく思えた。
　マラトンの戦いで、アテナイの将ミルティアデスの統率ぶりが喧伝されると、功をあせるテミストクレスは夜も眠れず、宴会も中座するほど落ち着きを失った。マラトンの勝利で、人々は戦争の終結と思ったが、テミストクレスは、これはより大きな戦いの始まりに過ぎないと説いた。
　ラウレイオン銀山からの収入は市民に分配されていたが、テミストクレスは単身、議会に赴き、その金で次の戦争に備えて三段櫂船を作れと説いた。当時、アテナイは、海上覇権を巡ってアイギナと対立していた。対アイギナ戦に備えてと説いたが、念頭にあったのはペルシアである。この時に作った百隻の三段櫂船は、後にクセルクセス戦で役に立った。
　アテナイは陸戦には不向きだが、海では有利に戦えると見たテミストクレスは、ミルティアデスの反対を押し切り、民衆を船乗りや海兵に仕立てた。
　この改革によって、アテナイ市民の忍耐、几帳面さが損なわれたと説く向きもある。しかし、この成果は、敵であるクセルクセスが明かしている。ペルシア軍は、陸兵は一兵も失わないながらも破れ、さらに退却に当たってマルドニオスを遺したのは、海軍の追撃を恐れた為である。
　テミストクレスが熱心に事業を行ったのは、政治に金が要った為である。家計は厳しく、よそから贈られた食物を転売していたほどである。
　若い頃から、名声や勢力を得る為の努力を惜しまなかった。キタラ演奏の名人エピクレスが来た時は、自宅を提供して練習させた。すると、多勢の市民が覗きに来たので家は賑わった。オリンピュアでは、有力者のキモンを相手に、宴会や宿舎の設備で見栄を張った。まだ駆け出しのくせにと、逆に不評判を招いた。
　テミストクレスは市民すべての名を覚えて、挨拶をした。また、訴訟事の調停役を進んで買って出た。
　有力者のシモニデスを嘲って、顔が悪いのに多くの彫像を作らせると非難した。こうやって民衆の機嫌を取って、ついに、アリステイデスを陶片追放に処した。
　やがて、ペルシア王がギリシアへ攻め寄せた。アテナイは誰を将軍にするか迷い、雄弁だが気性の弱いエピキュデスが担がれそうになった。テミストクレスは、この男が指揮を取れば万事窮すと考え、買収して翻意させた。
　ペルシヤ王からの使者がやって来て、土と水とを要求した。テミストクレスはその通訳を捕まえ、不遜にもギリシア語を話すなと死刑にした。これは礼に反するが、戦意を高揚して、アテナイ市民には好評であった。さらに、テミストクレスは、ギリシア人同士の争いを中断し、対ペルシヤ戦に向けて団結するよう呼び掛けた。
　テミストレクスは海戦を主張し、その為に国土を見捨てるまで説いた。反対派は、スパルタ軍とともにテッサリアまで進駐した。しかし、テッサリアからボイオティアまでがペルシヤ方に付いたので、人々は引き返して、テミストクレスを支持した。テミストクレスは艦隊を率いて、アルテミシオン海峡を守った。
　ギリシア連合軍は、エウリビアデス率いるスパルタ軍を首位にするよう説いた。アテナイの人は、自分達の軍艦が他のすべてを合わせたよりも多いので、それに反対した。テミストクレスは危険を見抜き、エウリビアデスに首位を譲り、同胞を宥めて、アテナイが勇気を見せれば首位を譲るという約束を取り付けた。これにより、テミストクレスは、勇気を持っては敵に勝ち、思慮によっては味方に勝ったと評判を得た。
　エウリビアデスは敵艦隊の多さにひるみ、さらに別動隊もあると聞いて、ペロポネソスに接岸し、陸軍の力を借りるという作戦を練った。これは、エウボイアを見捨てる事になるので、エウボイアの人々はテミストクレスに金を贈った。テミストクレスは受け取った金をそのままエウリビアデスとその幕僚に渡し、作戦の撤回を求めた。
　アルキテレスはもともとテミストクレスに敵対していた上、船員に金を払う為に帰港を急いだ。テミストクレスは、その船員らに反乱をけしかけた。さらに、気落ちするアルキテレスに、底に銀貨を仕込んだ食糧を贈り、これを船員に支払ってやれと勧めた。
　海峡での緒戦は、ギリシア方に勇気を与えた。艦隊の数も、舳先の飾りも、異様な喚声も恐るるに足らず、むしろ軽蔑して突撃すべしと学んだ。
　テルモピュライの人がアルテミシオン海峡へ来て、スパルタ王レオニダスが破れた事を伝えたので、連合軍は本土へ帰った。しかし、アテナイ軍は海峡を守り続けた。
　沿海地方は、ペルシヤ方に寝返る恐れがあった。テミストクレスは、そこら中に寄港しては、ギリシア方に就くように説き、さらに、大きな石にその文言を書いた。この石碑を見たペルシヤ軍は、その地方の帰趨については疑問を持ち、混乱を招いた。
　クセルクセスは陸路、フォーキスを攻めた。これは、アッティカの玄関口である。アテナイはフォーキスを守るよう頼んだが、連合軍はペロポネソスに籠城した。アテナイは裏切りを怒ったが、ペルシヤの大軍を相手に単独で戦う事もできなかった。街を捨てて、全市民が船に乗り込むという選択しかなかった。
　テミストクレスは並の道理では民衆を説得できないと悟り、悲劇の中の機械仕掛けの神のように、前兆と託宣を示した。アテナイ神殿の蛇が姿を消し、初穂を握る手が無くなっているのを神官たちは、アテネ女神は街を捨て、民衆を海に導くのだと説いた。
　この動議が通って、適齢の者は全員船に乗り、女と子供はトロイゼンに移した。トロイゼンの人はこれを歓迎し、彼らを国費で養い、子供たちには果実を取る権利を与えた。
　町の者全員が船に乗って家族と別れる様は、壮観であった。老齢の者は町に残った。飼い犬や馬が、飼い主を慕って、船に添って走る光景も心を打った。ペリクレスの父クサンティッポスの犬は、港に停まらず、船を追って海に飛び込み、サラミスの島まで泳いだが、そこで力尽きて死んだ。キュノス・セーマ（＝犬の墓）は今も残っている。
　テミストクレスは、市民の多くが未だにアリステイデスを慕っているのを見て、危急の際、追放された人が帰国して祖国に尽くす事を認めた。
　主将エウリビアデスは気力のない人だったので、テミストクレスは意見しようとした。近くにいた人が、町を捨てた人が何を言うかと非難すると、テミスレトクレスは怒った。「我々が家や城壁を捨てたのは、そんな魂のない物の奴隷になるつもりはないからだ。我々の町は、ギリシアで最も偉大なものだ。２００もの三段櫂船がそれである」
　ペルシヤ艦隊は対岸が見えないほど海を覆い、クセルクセスは海浜に駐屯した。エウリビアデスはまたしても、故郷へ引き返そうとした。テミストクレスは、この有利な状況で戦端を開くべく、シキンノスの計を用いた。
　シキンノスはペルシヤ人奴隷であるが、テミストクレスの家で家庭教師をして忠実であった。これをクセルクセスに遣わし、今スパルタ軍が逃げようとしているが、これが逃げる前に潰すべしと進言させた。クセルクセスはギリシア艦隊を包囲した。
　かつて追放されたアリステイデスがテミストクレスの幕舎を訪れ、艦隊が包囲されたと告げた。テミストクレスは訪問を感謝し、シキンノスの計を語り、ギリシア全土で信頼を得ているアリステイデスの協力を仰いだ。アリステイデスは各艦を歴訪して開戦を説いた。さらに、ペルシヤ方テーノスの船が一隻脱走して来て、すでに包囲されている事を告げたので、ギリシア艦隊は戦いを決意した。
　夜明け、クセルクセスは高所にて、両艦隊の威容を眺めた。ペルシヤ艦隊は千、ギリシアはその半分もなかった。テミストクレスは風を待った。やって来た風は、甲板の高いペルシヤの船を横に向け、低いギリシア艦隊には害を与えなかった。ペルシヤの提督アリアメネスは、船上から矢を射、槍を投げた。アメイニアスとソクレスとは、異郷ながら一船に乗って、アリアメネスを槍で突いて海に落とした。その遺体は、ペルシヤ方であるハルカリナッソスの女王アルテミシアが拾った。
　戦いの最中、大きな光が空を通った。人々が叫ぶと、群衆の中から雲が上がり、再び降りて艦隊の上に掛かった。兵士の幻が空に現れ、ギリシア艦隊を守るように手を差し延べた。狭い海峡ではペルシヤ艦隊の数の優位は消えて、ギリシア方は勇敢に戦い、夕方には敵を潰走させた。
　クセルクセスはいきり立ち、今度は陸兵でサラミスを攻めようと考えた。テミストクレスは、ヘレスポントスの船橋を破壊して、ペルシヤの退路を断とうと提案した。アリステイデスはこれに反対した。「今までペルシヤ王は遊び半分だったが、これをギリシアに閉じ込めれば、情況を立て直して、思い切った事をしてくる。よって我々は、今ある橋を壊すどころか、もうひとつ橋を作って、これをヨーロッパから追い出すべきである」
　捕虜となった宦官アルナケスがクセルクセスの下に派遣され、ギリシア方は船橋を破壊するつもりであるが、テミストクレスは王への好意でこれを遅らせていると進言した。クセルクセスは退却した。
　ギリシアの勝利が確定した。人々は羨望もありながら、しぶしぶテミストクレスに第一の武勲を認めた。将軍たちは投票の際、全員が、自分を第一、テミストクレスを第二としたので、テミストクレスが第一となった。スパルタはテミストクレスを招待し、同郷のエウリビアデスに武勲賞、テミストクレスに知恵の賞を授けた。オリュンピア競技では、人々は競技をそっちのけにして、テミストクレスの方ばかり眺めた。
　テミストクレスはしかし、能力や功績を誇るような所があった。アテナイの海軍提督に選ばれると、あらゆる仕事を先送りにし、それを一日で片付けて自分の有能さを見せつけた。ペルシヤの財宝が海岸に打ち上げられると、君はテミストクレスではないのだから、君が取りたまえと友人に進めた。かつて自分を袖にした美少年アンティファテスが言い寄って来ると、「今頃、気付いたか」と言った。自分の土地を一部売り出した時には、「しかも、そこには最上の隣人がいる」と付け加えた。娘の婿については、金持ちよりもしっかりした男を選んで、「男のない金よりは、金のない男を選ぶ」と言った。
　テミストクレスはアテナイの街を再建し、城壁で取り囲んだ。さらに、外港を充実させた。かつてアテナイの先人は、アテナイの人が余り海に向かわず、陸に向かうよう政策を取った。逆にテミストクレスは、街が海に開けるようにした。その結果、貴族に対して民衆の力が増し、船員、漕手、舵取までが権力を握るようになった。
　対ペルシヤ戦争が終わった直後、テミストクレスはこの際、アテナイ以外のギリシアの船を全部焼いてしまおうと計画した。アテナイの人は、それ計画はアリステイデスにだけ打ち明け、アリステイデスが賛成するなら同意しようと言った。聞いたアリステイデスは、アテナイに取ってこれほど有利な計画はないが、これほど不正な計画もないと言ったので、それは見送られた。
　全ギリシア会議で、スパルタは先の大戦に参加しなかった国の脱退を提案した。それは、テバイ、アルゴス、テッサリアで、この三国がなくなると、スパルタの発言権が増す事を恐れたテミストクレスは反対した。ここから、スパルタはテミストクレスを憎むようになった。
　やがて、市民は羨望から、テミストクレスへの誹謗を歓迎するようになった。また、テミストクレスも過去の功績を誇ったので、うるさがられた。アルテミス神殿を建てたのは良いが、それをアリストブレ（＝最良の勧告者）と名付けたのは反感を買った。
　ついに、テミストクレスに対する貝殻追放が行われた。これは、平等が破られると思われた時、有力者の誰にでも行われた。これは懲罰ではなく、民主制を維持する為である。
　テミストクレスが追放されると、パウサニアスの反逆事件に絡んで、関与するとの疑惑を受けた。パウサニアスの手紙から、テミストクレスは事件に関与してはいないが、事前に知っていたと判ったので、扇動家は告発し、スパルタもこれに乗った。
　テミストクレスはケルキュラからモロッソイへ逃れた。モロッソイ王アドメトスは、テミストクレスに旧怨があったが、テミストクレスは卑屈に命乞いして難を逃れた。
　ここから先については二つの説がある。テミストクレスはシチリアの姫に求婚したが断られたのでアジアへ向かったという説。もうひとつは、航海中、たまたま風で吹き寄せられた所が、アテナイ軍によって包囲されているナクソスで、告発されている身ゆえ、船長に頼んでアジアへ向かったという説である。
　アジアに着いてみると、自分の首にはペルシヤ王によって２００タラントンの賞金が掛けられていた。そこで身分を隠してアイオリスに潜伏したが、旧知のニコゲネスに見破られ、友情から、王族の妻妾を運ぶ車に乗せられて首都を目指した。
　テミストクレスは近衛隊長のアルタバノスに会って、王との面会を願い出た。アルタバノスはアジアの風習を説明し、王に平伏する用意はあるかと尋ねると、テミストクレスは、それが交渉の妨げになってはならないと、平伏する意志を示した。ただし、正体は明かさなかった。
　時のペルシヤ王については、多くの歴史家は、クセルクセスだとしているが、トウキュディデスは、その次のアルタクセルクセスであるとしている。
　テミストクレスはペルシヤ王の前に平伏し、何者かと問われて答えた。「ここにいるのはアテナイのテミストクレス、ギリシヤに追われた亡命者。ペルシヤには多くの害を与えましたが、追跡を思い停まらせて、害以上の益を与えました。ここに来た以上は、許して下さるにせよ、仇を受けるにせよ、覚悟はできています」
　ペルシヤ王はその思慮と大胆さに感服した。そして、これを最大の幸福だとして、これからも敵にこういう心を起こさせ、優れた者を追放させるよう願った。そして、夜も嬉しさの余り、「アテナイのテミストクレスを手に入れた」と三度叫んだ。
　翌日、王は側近を集めてテミストクレスを紹介した。側近は誰も良い顔をしなかったが、王は上機嫌だった。テミストクレスが平伏すると、王はこの人には２００タラントンの借りがあると言った。何事かと問うと、賞金首を自分で連れて来たからだと答えた。そして、もっと多くの賞金を与えた。
　テミストクレスは一年の猶予を願い、ペルシヤ語を学んで、再び王に謁見した。ギリシア事情を話していると見えたが、改革の最中で、内政についての直言をしているようにも見えたので、高官の嫉妬を招いた。待遇も並の賓客ではなく、王の狩りに加わり、宮廷の宴に連なり、太后のお気に入りとなり、ゾロアストルの祭司マゴスの教えまで聞いた。その後、王がギリシアに使者を送る時は、自分に仕えればテミストクレスより優遇すると付け加えた。
　多くの歴史家は、テミストクレスに、その収入源として、マグネシア、ランプサコス、ミュウスの町が与えられたと伝える。さらに、ペルコテ、パライスケプシスを加える史家もいる。
　ペルシヤの地方官エピクスエスはテミストクレスを殺そうと、獅子の頭という村で待ち伏せをした。道中、テミストクレスが眠っていると、夢にキュベレ女神が現れ、獅子の頭に用心せよと告げた。たまたま駄獣が川に落ちたので、濡れたテントを干していたら、それを狙って賊が現れたので、供の者が捕えた。テミストクレスはキュベレ神殿を建て、娘ムネシプトレマを祭司とした。
　サルディスでは、元アテナイにあった水汲み娘と呼ばれる青銅の像があった。それは、戦利品として持ち去られたものだった。テミストクレスは自分の待遇を見せつけるつもりで、それをアテナイに送ろうとした。それは、当地の官僚サトラペスの怒りを買い、進退騒ぎにまでなったので、テミストクレスは行いを慎重にした。
　前４５９年、エジプトはアテナイに唆されて、ペルシヤから離反した。また、アテナイの提督キモンが地中海を制覇した。ペルシヤ王は、ギリシア問題で意見を求めるのはここと、テミストクレスを呼んだ。
　しかし、テミストクレスは、ギリシアに格別の恨みはなかったし、過去の功績と名誉から、自分の生涯に結末を付けるのが最上と考えた。犠牲を捧げた後、友人を呼んで別れを告げ、牛の血、もしくは毒をあおって死んだ。６５才であった。ペルシヤ王は、遺族を厚遇した。
　テミストクレスには子女が多く、特に娘は名のある人がめとった。その墓はマグネシアの、海に向かった高台に建てられた。喜劇詩人プラトンは次のように歌っている。
「あなたの墓は結構な場所を占め、方々から来る商人たちに挨拶をする恰好で、出船入船の人々を望み、船の競漕を好きな時に眺めるであろう」

寸評
　スパルタやローマに比べて、アテネの人はなんか貫禄がないんですよ。大殊勲を上げた後で、おっちょこちょいなことを言うし。まるで、関西人みたいですね。

book