ファビウス・マクシムス
プルターク英雄伝、河野与一訳、岩波文庫、1952。
ファビウス家は多くの偉人を出しているが、マクシムス（＝偉大な）と仇名さ
れたルルスから四代目が、ファビウス・マクシムス
（＝Quintus Fabius Maximus Verrucosus Cunctator）である。
唇の上に小さないぼ（＝ウェルーカ）があったので、ウェルコススという仇名
が付いた。幼時はおとなしかったので、愚鈍ではないかと思われた。しかし、少
数の人は、獅子のような気位の高さを見てとった。成長するにつれ、無為と思わ
れたのは冷静さで、臆病と思われたのは慎重さで、堅固で確実な性格を示した。
時代が戦争に向いているのを見て、体を武器のように鍛え、言葉を民衆を説得す
る道具として磨いた。凝った飾りや市場的な趣味もなく、警句と重みのある悟性
が感じられた。
ファビウスは五度、コンスルを勤めた。
前２３３年、リグリア人に勝って凱旋式を行った。リグリア人は略奪を事とし
たが、以降はアルプスに引っ込んだ。
前２１８年、ハンニバルがイタリアに侵入した。トレビア河、エトルリアで勝
利し、ローマに恐怖を与えた。この頃、ローマに様々な前兆があった。長楯が血
を流し、収穫した麦穂が血にまみれ、隕石が落ち、ファレリイでは天が裂けた。
時のコンスル、ガユス・フラミニウスは、ガリアを破って勝利し、前兆を気に
しなかった。対するファビウスは、慎重策を勧めた。ハンニバル軍は小勢で、装
備も少ないので、ローマはこれを相手にせず、同盟軍に援軍を送るだけに停めれ
ば、薪を失った炎のように燃え尽きると説いた。
フラミニウスは聞かず、進軍を決め、馬にまたがった所が、原因もないのに馬
が怯えて、真っ逆さまに馬から転げ落ちた。しかし、決心を変えず、エトリルア
に布陣した。
両軍が入り乱れて戦がたけなわになった頃、大きな地震が起こって、町は覆り、
河は流れを変え、崖は崩れた。これほど激しい天災に気付かないほど、兵士らは
夢中で戦った。フラミニウスは勇気と体力のほどを敵味方に示したが、やがて倒
れた。列する勇士らも倒れた。斬り殺された者が一万五千、捕虜になった者が一
万五千で、ローマは敗北した。ハンニバルはフラミニウスを手厚く葬ろうとした
が、遺体は見つからなかった。
この敗北については、将軍も使者も口を濁した。しかし、ポンポニウスは真相
を掴んで、「ローマ人よ、フラミニウスは破れた」と宣言した。町中が混乱に落
ちたが、やがて民衆の心はひとつになって、ファビウスをディクタトルに任命し
た。
ファビウスはマルクス・ミヌキウスを騎兵隊長に任命した。そして、先の敗戦
が、軍の弱さではなく、軍隊が神々の前兆をないがしろにした為だと説いて、民
衆を力付けた。ファビウスは民衆の前で、この一年に産まれる、すべての山羊、
羊、豚、牛を犠牲に捧げると誓った。
ファビウスはハンニバルに向かったが、直接交戦は避けて、その勢いに対して
は時間をもって、少数に対しては多数で、物資不足に対しては豊富な物量で当た
ろうと考えた。そして、山地に陣を敷いて、つねに敵と距離を置き、こちらから
は仕掛けないようにした。これは当然のように軽蔑され、自陣からも悪口を言わ
れ、敵からも臆病者と見られた。ひとり、ハンニバルだけがファビウスの手腕を
見抜いて、何とかして戦に引きずり込まねばカルタゴ軍はおしまいだと考えた。
優秀な兵士も武器も使えない上、いたずらに時を重ねて物資を消耗していた。そ
こで、あらゆる挑発を試みたが、ファビウスは計略に自信を持ち、動揺を見せな
かった。
しかし、騎兵隊長ミヌキウスは、将軍の深慮が判らなかった。彼は上司を悩ま
し、兵士を扇動した。兵士はファビウスを嘲弄してハンニバルの家庭教師（＝奴
隷）と呼び、ミヌキウスこそ将軍にふさわしいと考えた。ミヌキウスは山の上の
自陣をさし、将軍はイタリアが荒らされたり焼かれたりするのを見る為に、立派
な劇場を設けていると演説した。友人がこれをファビウスに伝えると、「非難や
嘲笑を恐れて計画を狂わせたら、それこそ卑怯になってしまう。非難を聞いて顔
色を変えるのは、主人ではなく奴隷の態度である」と答えた。
やがて、ハンニバルに誤算が起こった。ファビウスを避けて、カシヌムの牧草
地を占領するつもりが、案内人が間違えて、カシリヌムに導いた。地理に明るい
ファビウスは先回りして、敵の進路を重装兵四千で塞ぎ、後方から軽装兵で襲っ
て混乱させ、八百の兵を殺した。
進退極まったと見たハンニバルは計略を用いた。二千の牛の角に薪を結んで火
を着け、峠の陣営めがけて行進させた。火が小さい間は、牛もおとなしく歩いた。
しかし、火が大きくなると、牛は無秩序に山の中を走り回り、そこらの森に火を
着けて回った。それは、離れて見守る峠の陣営からは、多くの人が松明を持ちな
がら走り回るように見えたから、踏み停まる勇気もなくなり、本陣へ退却した。
ハンニバルは峠を占領した。
夜半、ファビウスはこの計略に気付いたが兵は動かさずにいた。夜明け、ファ
ビウスは敵後陣に襲いかかった。しかし、ハンニバル配下のスペイン軽装兵がよ
り良くローマ重装兵を蹂躙し、敵を敗走させた。ファビウスは面目を失った。知
略と予想で敵を破るつもりが、敵の急場凌ぎの知略で破れた為である。
ハンニバルは、さらにファビウスの名誉を傷付けるべく、すべての田畑は荒ら
しながら、ファビウスの所有と見られる田畑だけは荒らさずに過ぎた。護民官は
ファビウスを弾劾した。特にメティリウスは、親戚のミヌキウスの点を上げるべ
く、ファビウスを弾劾した。
ファビウスとハンニバルは、一対一の捕虜交換と、残るは一人２５０ドラクメ
の身代金と取り決めていた。ところが、一対一で交換すると、ハンニバルの下に
２４０人の捕虜が残った。元老院はこの捕虜につき、国庫から支出せず、ファビ
ウスの私費であがなう事も禁じた。ファビウスは民衆の非難に耐えたが、ハンニ
バルの方からも捕虜の処遇につき催促が来た。そこで、息子をローマに派遣して、
田畑を売り、その金で捕虜をあがなった。多くの人が身代金を出そうとしたが、
ファビウスは受け取らなかった。
ある犠牲式の執行にディクタトルが必要なので、ファビウスはローマに帰った。
ミヌキウスには、安全策を伝えた。しかし、ミヌキウスは意に介さず、ハンニバ
ルが食糧挑発に出た隙をつき、残る本陣に攻撃を仕掛けて多数を殺した。
ハンニバルは安全に退却したが、ミヌキウスは気が大きくなり、兵士も向こう
見ずになった。事態がローマに伝わると、ファビウスは、ミヌキウスの不運より
もその幸運の方を恐れると言った。メティリウスは演壇に立って、ファビウス弾
劾、ミヌキウス擁立を説いた。
ファビウスも演壇に登ったが、この期に及んでは、式典を手早く済ませ、戦場
に帰るのが先決で、ミヌキウスは命令違反で罰するつもりだと漏らした。今や、
ミヌキウス贔屓の民衆はたいへんな騒動を起こした。思えば、ファビウスはまだ
ディクタトルであり、生殺与奪の権を握っていた。不可侵権を持つ護民官のメティ
リウスだけが、ミヌキウスへの権限委譲を説いた。
フォルムの民衆は、ファビウスの権限まで奪えなかったが、ミヌキウスをディ
クタトルと同格にする事は認めさせた。これは、前例のない事であった。
これはまた同時に、ファビウスに対する侮辱であった。しかし、ファビウスは
動じなかった。かつて、ディオゲネスが、民衆に嘲笑されながら、私は嘲笑され
ていないと言ったのと同じで、事情を判らない者の評価に動かされる事はなかっ
た。しかし、ミヌキウスの功名心に拍車をかけた民衆の無分別は、国家を思うファ
ビウスの心を傷付けた。
ミヌキウスがまた失敗をしないうちにと、ファビウスは単身ローマを発った。
陣営に戻ると、ミヌキウスは手に負えない有り様で、指揮権の交替を要求した。
それは許さず、第一軍と第四軍をファビウス、第二軍と第三軍をミヌキウスとに
分担した。そして、敵はハンニバルであって、同僚の将軍ではないと言い聞かせ
た。
ローマ軍とカルタゴ軍との間に丘があり、ここを占拠すれば有利なのに、ハン
ニバルはわざと残していた。ローマ軍の分裂を知ると、ハンニバルはこの丘に食
指を示した。果たして、ミヌキウスは二軍を率いて丘に進出した。伏兵が、閧を
上げてミヌキウスを包囲した。ローマ軍は混乱し、ミヌキウスも勇気が挫けて、
配下の将校を見渡したが、誰もが我勝ちに逃げ出す有り様。カルタゴ配下のヌミ
ディア人が丘を駆け回り、散りぢりになった兵を殺した。
ファビウスは事態を予測して、軍を待機させていた。味方の叫び声を聞くと、
溜め息をついて足を叩いた。「思ったより早く、ミヌキウスは身を滅ぼした。し
かし、あれは愛国者だ、責めるのは後で良い」
ファビウスは先頭に立って、ヌミディア人を潰走させた。その勢いのまま敵陣
に向かったので、敵は逃げ回った。ハンニバルはファビウスを見て、退却命令を
下した。ハンニバルは側近を顧みて言った。「私は言った筈だ。山の上に雲があ
る時は、いつ雷雨が来るか判らないと」
ファビウスは多くの略奪品を満載して帰ったが、同僚には憎まれ口ひとつ聞か
なかった。ミヌキウスは兵士を集めた。「諸君、過ちを犯さないのは難しいが、
犯した過ちを教訓とするのは立派な男の務めである。長く気付かずにいた事を、
今日は一日で教えられた。まだまだ学ぶべき相手と張り合ったのは間違っていた。
あの人への感謝の為に、まず私が先んじて従順になろう」
鷲旗とともに、二軍を率いて、ミヌキウスはファビウスのテントに向かった。
ミヌキウスはファビウスを父と呼び、その兵士はファビウスの兵士をパトローネ
と呼んだ。これは、解放奴隷が元の主人に対する態度である。ミヌキウス、「ディ
クタトル、あなたは今日ふたつの勝利を得た。勇気をもってハンニバルに、知恵
と親切で同僚に。ひとつの勝利で我々を救い、ひとつの勝利で我々を教えた。あ
なたを父と呼ぶのは、これ以上の呼び名がない為である。あなたから受けた恩は、
私を生んだ人より大きい。なぜなら、かつて生まれたのは私一人だが、今日救わ
れたのは多勢と一緒だから」 こう言って、ファビウスを抱きしめた。見れば、
兵士らも抱き合っていた。
この後、ファビウスはディクタトルを退いた。時のコンスルは、対ハンニバル
に引き続き持久戦をもって臨んだ。しかし、この頃に頭角を現したテレンティウ
ス・ウァロが民会選出のコンスルとなると、その野心に国家を引きずり込んだ。
彼は無経験と軽はずみから、ハンニバルを一日で破ると宣言し、八万八千の軍を
招集した。これだけ多くの壮丁が失われると、ローマは再起不能である。
ファビウスはもう一人の貴族出のコンスル、アエミリウス・パウルスを励まし
て、ウァロを押さえようとした。そして言った。「ハンニバルについては、私の
方がよく知っている。もう一年現状が続けば、あの男はここで滅びるか、逃げ去
るかする。本国からは援軍は来ない、しかも、今残っているのは当初の三分の一
だ」 しかし、パウルスの決心は固かった。「あなたの言う通りだとしても、私
は誰よりも立派な将軍として努めよう」 こうして、パウルスとウァロとは出征
した。
ウァロは一日交替の指揮を要求した。カンナエで、ローマとカルタゴとが対陣
した。ウァロは夜明けとともに、全面攻撃を命じた。カルタゴ軍も、これには度
肝を抜かれた。二倍の軍勢による、総攻撃である。しかし、ハンニバルは落ち着
いていた。同僚のギスコーが、敵の数は驚くべきものだと言うと、ハンニバルは、
「それよりも驚くべき事があるのに、君は気付いていない」と言った。何かと問
われてハンニバル、「あの中にギスコーという人はいない」 この冗談は、兵団
の心を軽くした。兵士らは会う人ごとに、この話を伝えたので、カルタゴ軍は大
いに意気が上がった。
風が強かったので、ハンニバルは風を背に布陣した。ローマ兵は時ならぬ強風
に、顔をそらさずにいられなかった。また、ハンニバルは強い兵を両翼に置き、
弱い兵を中央に置いた。中央を突破したローマ兵を両翼が包み、これを包囲殲滅
する形になった。ローマ軍にも不運があった。たまたま、パウルスが落馬したの
で、回りの将は馬から降りてこれを防戦した。すると、これを見た騎兵がみな、
何か命令があったものと見て、馬から降りて戦った。
ウァロは供回りを連れて、ウェヌシアへ逃げ込んだ。パウルスは多くの矢を受
け、血まみれになりながら、岩により掛かって立ち、敵が止めを刺すのを待った。
傷が深いので、退却する友人も部下も、気付かずに過ぎた。ひとり、コルネリウ
ス・レントゥルスのみが気付いて、馬を譲り、指揮を必要とする者の所へと勧め
た。パウルスはそれを拒んだ。「レントゥルスよ、君が証人となって、ファビウ
スに伝えてくれ。アエミリウス・パウルスは最後まで戦ったが、まずウァロに負
け、ついでハンニバルに負けたと」 こう言い残して、パウルスは激戦区に突入
して果てた。ローマ側の死者は五万、捕虜は一万四千に上った。
この勝利は、ハンニバル側の情勢を有利なものとした。戦の前は、全イタリア
中にひとつの町、ひとつの市場、ひとつの港も持たず、物資は略奪してやっと手
に入れ、ほとんど漂泊の民のようだったのに、これ以降は、イタリア全土の町が
進んで味方につき、ローマに次ぐカプアまでが配下となった。
友人を試す事は害であるのみならず、将軍を試す事も害である。以前は卑怯、
臆病と見られた態度は、遠い将来を予見した神懸かりな洞察力だと讃えられた。
ローマの民衆は残った希望をこの人につなぎ、神殿や祭壇に駆け込むようにファ
ビウスの意見を求めた。また、ファビウスも、何ひとつ危険がないと思われた時
に警戒を厳にしながら、すべての者が悲痛と混乱に我を失っている時に、落ち着
いた足取りで歩き、泣き言を押さえ、人々を勇気づけた。
ファビウスは城門を閉ざし、ローマから避難する道を閉ざした。敗戦につき三
十日の喪を認め、これを過ぎれば嘆きや悲しみを忘れる事を説いた。
もっとも恥ずべき振る舞いをしたウァロがおめおめと帰って来たが、城門の所
で身を低く、眼を伏しているのを、元老院も民衆も歓迎した。あれほどの不幸に
もめげずローマに希望をつないだ事につき、ファビウスも認め、少しでも役立と
うと帰って来た事を称讃した。
ハンニバルはほかに転戦したので、ローマの人は元気を取り戻した。そして再
び、追討の為に、ファビウス・マクシムスとクラウディウス・マルケルスとを送
り出した。マルケルスは、果敢なハンニバルと果敢に戦った。ファビウスは最初
の考えを堅持して、敵の体力が消耗するのを待った。ポセイドニオスは、ファビ
ウスをローマの楯、マルケルスをローマの剣と評した。ハンニバルはマルケルス
と戦っては軍勢を砕かれ、ファビウスは音もなく静かに回って勢力を切り崩した。
ハンニバルと二人の戦いは長期に渡った。五度目のコンスルを勤めた時、マル
ケルスは伏兵にかかって倒れた。ファビウスにも多くの計略が仕掛けられたが、
成功はしなかった。メタポンティウムの有力者から、この町を攻めてくれば内応
するとの手紙があったが、鳥占いが不吉だったので断念した。後に、この手紙は
ハンニバルが作ったものだと判った。
周囲の町の離反や、同盟国の動揺を、ファビウスは寛大に扱った。マルシー族
が離反しようとしたのを責めず、以前に功績があったのを無視した事を認め、報
償を与えた。以降、マルシー族はもっとも信頼のできる味方となった。犬や馬を
しつけるのさえ、鞭よりは餌や愛情によるのに、人間を相手にそれより厳しくあっ
てはならないとファビウスは考えていた。
ルカニア生まれの兵士が、たびたび持ち場を離れる事が報告された。しかし、
その武勇は並びない事も併せて報告された。調査の結果、それは一人の娘に会わ
んが為であると判った。ファビウスは件の娘を自陣のテントに隠し、兵士を呼ん
で言った。「お前の過ちは知れている。しかし、勇敢な働きに免じて罪は許し、
これからは番を付ける事にする」 そして、娘を引き渡した。
かつての同盟都市タレントゥムは、今はカルタゴ側に寝返っていた。ファビウ
ス陣営に、タレントゥム出身の若者がいた。この若者に、兄思いの妹がいて、さ
らにブルッティウムの指揮官がこの妹を慕っていた。兄は妹の家へ行って、指揮
官と面会した。ふたりは意気投合して、ファビウスの報償を当てにするようになっ
た。
ファビウスは八千の弱卒でもってブルッティウムを荒らした。これが餌となっ
て、ハンニバルはタレントゥムから出撃した。ファビウスはタレントゥムを包囲
した。この時、かのブルッティウムの指揮官もここに居て、ファビウスに内応し
た。
作戦は成功したが、ファビウスは恥ずべき振る舞いをした。内通を隠す為に、
ブルッティウムの人々を殺したのである。しかし、三万の奴隷と、多くの略奪品
を得た。
この時、ハンニバルはタレントゥムまで僅かの距離に進んでいた。そして言っ
た。「ローマにも別のハンニバルがいたと見える。我々はタレントゥムの町を取っ
たのと同じ手で取り返された」 さらに、この上はイタリア征服は無理だと告白
した。ファビウスは二度目の凱旋式を行った。
ローマの人々はファビウスに様々な名誉を与え、その息子をもコンスルにした。
ファビウスはその曾祖父の代から立派な功績を上げていた。
スキピオ・アフリカヌスがイスパニアに派遣され、かの地のカルタゴ軍を駆逐
し、多くの奴隷や戦利品を得て凱旋し、コンスルに選ばれた。彼は、イタリアに
おける対ハンニバル戦を古臭いものと見なし、カルタゴ本土を攻めるべきだと民
衆を扇動した。ファビウスはこの無思慮を恐れて、民衆を脅しつけた。元老院は
承服したが、民衆はファビウスが若い将軍を妬んでいると評した。
しかし、やはりファビウスはスキピオへの対抗心を徐々に募らせた。もうひと
りのコンスル、クラッススを味方に付け、時期がくればクラッススがカルタゴに
当たるようにさせた。スキピオは戦費調達の為、友好的なエトルリアの町を回っ
た。
ファビウスは元老院でも民会でも大いに叫んだ。スキピオがカルタゴを攻めて
も、ハンニバルがここに居るかぎり、ローマは虎口にあるのと同じだ。この演説
が功を奏して、スキピオにはシチリア駐留軍と、直属の三百の兵の使用だけが認
められた。
スキピオはリビュアに渡り、華々しい戦果と武勲を挙げた。多くの奴隷、戦利
品、捕虜となったヌミディア王がローマに送られた。カルタゴはハンニバルを呼
び戻す為の使者を送った。
ローマはスキピオの戦果に熱狂したが、ファビウスだけは水を差した。「国家
の一大事をひとりの幸運に委ねるのは危険だ。同じ人間が幸運を保つのは難しい」
これは民衆には、気難しい年寄りの愚痴にしか聞こえなかった。
前２０３、ハンニバルはイタリアから撤退した。ファビウスはまだ危険を説き、
ハンニバルはスキピオを破るだろうと警戒した。
スキピオはハンニバルを破り、カルタゴを占領した。ローマ市民に取っては、
激しい波に揉まれた後、より大きな回復を得たようであった。しかし、ファビウ
スはハンニバルの敗北を聞かず、その撤退の頃に病気で亡くなった。ローマ市民
は、ファビウスの葬儀を国費をもってせず、各々の貨幣を持ち寄ってしたのは、
それを父親として葬る為である。ファビウスに取って、ハンニバルは最後まで大
きな存在であった。
ファビウスの慧眼は正しかったが、全権がないのでローマを不幸に陥れた。ミ
ヌキウスやウァロを見た後では、スキピオを危ぶむのも仕方がない。
金銭に対する気位の高さでは、ペリクレスの潔さは随一で、捕虜の身代金を私
費であがなったファビウスもこれに比肩する。ファビウスの資産は六タラントン
に停まったと言われる。
寸評
ハンニバルの好敵手です。互いの力量を認め合う姿は、少年漫画のヒーローの
ようです。
「プルターク英雄伝」の中で、「ハンニバル編」「スキピオ編」は散逸して、
ありません。しかし、彼らの業績はこのように、形を変えて、他の偉人伝に描か
れているのですから、惜しむには当たりません。
もしそれがあれば、司馬遷「史記」の中の、「項羽編」「高祖編」に相当した
でしょうが、惜しむには当たりません。