織田作之助

夫婦善哉

　蝶子の実家は、年中借金取りが出入りした。醤油、油、八百屋、魚屋、乾物屋、 米屋、炭屋、家主、みな厳しい催促。一銭てんぷらを揚げる父の種吉、借金取り が来ると、うつ向いて小麦粉をこねる。
　女房のお辰は、借金取りに負けていない。客が勢い余って板の間を叩くと、人 様の家を叩いて、よろしおまんのかと責める。そこは家の神様が宿ったはるとこ だっせ。
　そんな話を聞くと、小銭を盗んだ事が後悔される蝶子。父のてんぷらは味自慢 で、蓮根でもこんにゃくでも、すこぶる厚身で損をしていた。これだけでは食べ ていけないので、祭や葬式の人足もする。
　小学校を出ると蝶子は女中へ。がたろ横町の材木屋から良い話があったのだが、 ゆくゆくは妾にとの腹が読めたので父親はうんと言わず、悪い条件で古着屋へ出 した。そこの材木屋は貸家もやっていて、高い家賃を厳しく取り立て、何人も妾 を囲っている。蝶子はみるみる奇麗になって、さすがは炯眼だった。
　娘の手の赤切れを見て連れ戻す、種吉。新地の茶屋へ芸者の見習いに出す。
　蝶子十七、芸者になると言い出す。お披露目に金がかかるので、かえって赤字。
　喉自慢の蝶子、どんな座敷でも声を張り上げ、ふすま紙が震える程。陽気な座 敷に欠かせず、はっさい（お転婆）で売る。
　理髪店向けの石鹸、ポマード等を扱う卸し商の息子・維康柳吉ｺﾚﾔｽﾘｭｳｷﾁが馴 染みになる。31才、妻子あり。三月で評判になり、一本になった時の旦那をしく じった。
　通りがかりに見かけた柳吉の姿、耳に挟んだ筆を取って帳面を付け、算盤を弾 く。それがいかにも頼もしく見えた。内気で吃り癖のあるのが、また律義に見え る。
　喰い道楽の柳吉、ただし、ゲテ物好み。一流のものは、言うては悪いが銭を捨 てるようなもの。夜店のドテ焼き、粕饅頭、どじょう汁、出雲のまむし、たこ梅 のたこ、鯛皮の酢味噌、など。「ど、ど、ど、ど、どや、うまいやろが、こ、こ、 こないなうまいもん、どこィ行ったかて食べられへんぜ」
　食べ物は安いが、衣裳はちゃんと揃えてくれる柳吉。花月では春団治の落語。
　資金繰りが悪くなる柳吉、父の痛風。そこへ、蝶子からの下駄の贈り物。家族 揃っての談判。勘当寸前で家を飛び出し、蝶子と駆け落ち。
　東京で500円を集金し、熱海で遊ぶ。芸者が来ると、座を浚わずには済まない 蝶子。震災に合って、大阪へ。種吉の家へ上がり込む二人。
　氷水を取りにゆく種吉。銀蝿が飛ぶ中を、あらたまって親子四人の会話。芸者 をやめる決意の蝶子、前貸し300円は父が払う。お辰、柳吉に向かって、娘には 風邪ひとつ、怪我ひとつさせた事はない。これまで育てる苦労は、と語る。
　黒門市場の路地裏の二階を間借り、下は折詰め職人。まだ遊んでいる柳吉、働 きに出る蝶子。今度の勤めは芸者ではなく、ヤトナ芸者。宴会や婚礼に出張する、 安上がりの芸者の事。
　三味線を入れたトランク下げての出勤、定料金でとことん楽しむ無粋な客。夜 更けて帰宅、野良犬や拾い屋しかいない。
　おぐらやの昆布を真似て、自宅で山椒昆布を煮る柳吉。ぞんざいな口調の蝶子、 それをおばはんと呼ぶ柳吉。
　年末、実家へ帰る柳吉。妻は去り、子は十八の妹が預かっている。その子にも 会わせて貰えず、追い返される。私の力で柳吉を一人前にしてみせまっさかい、 と心に誓う蝶子。
　チラシを綴じて家計簿を作り、ヤトナの稼ぎの半分を貯金に回す蝶子。子に会 えぬ寂しさから、その貯金を降ろして遊ぶ柳吉。帰った柳吉を突き倒し、頭を叩 く蝶子。柳吉、「おばはん、何すんねん」
　自由軒の卵入りライスカレー。
　柳吉、剃刀屋の店員に就職。共同便所の向かい、薄暗い店内。三月で主人と喧 嘩、退職。胞輩に受けの良い蝶子、頼まれるままに金を貸して後悔する。先妻が 亡くなったと聞き、法善寺に蝋燭を寄進する蝶子。仏壇に花を絶やさず、一分の 隙もなく振る舞う。
　二年で貯金は300円、母は内職、弟は新聞配達。家族に小遣いをやる蝶子。う ち100円を芸者遊びに使う柳吉。蝶子の折檻。
　衣裳も使い回しで節約する蝶子。また300円溜めて、夫婦で一軒の店を借りる。 内装もして、剃刀、頭髪用品の販売。向かいは銭湯と、土地柄も考えている。
　初日、最初の客、夫婦二人で気味が悪いほどの愛想。しかし、客足がつかない。 店番して、恥ずかしい気持ちになる程。浄瑠璃を習う柳吉、ヤトナ再開の蝶子。
　カフエで十日分の売上を使う柳吉。店仕舞、投げ売りで100円の売上、店の権 利が220円。しかし、問屋への支払いを済ませると、10円も残らない。
　またしても二階借り、今度は呉服屋。衣裳の裾が擦り切れ、義理でも新しいの が欲しい所だが、そこを堪える。
　三年で200円、うち50円を飛田遊郭で使う柳吉。首を締め、殴りつける蝶子。 階下の主婦に止められて、袖を顔に当てて泣く。
　毎朝、自分で鰹節を削る柳吉。これも快く思わぬ家主の主婦だが、好みの味に する為のこだわり。喰い意地の汚さから発したもの。
　柳吉の家出、十日目にひょっこり帰る。妹が婿養子を迎えるとの事。こちらは 廃嫡寸前、連日の膝詰め談判。ここは芝居を打って、女と別れたふりをして、貰 う物だけは貰う寸法。
　ヤトナの女将に訳を話すと、さすが苦労人、あんた維康はんに騙されてなはる。 やがて、実家からの使いの者にも、別れるとは言わない蝶子。
　三日後、帰宅する柳吉。お前のお陰で計画がぶち壊しと不機嫌。双方の手切れ 金で二重取りできたのにと悔やむ。
　妹から無心した300円と、蝶子の貯金とを足して、飛田大門通りに関東煮の店 を出す。店の名は、蝶柳。場所柄、ビールも売れて繁盛。おかまの流しも居て、 景気が良い。朝食も始めて、ますます繁盛。疲れると酒を呑む、酒を呑むと気が 大きくなる柳吉。蝶子はひやひや。
　妹の結婚に出席を断られた柳吉、200円の浪費。三日後に帰った柳吉を、散々 に折檻。
　遊び癖のついた柳吉、放蕩、散財しては禁酒。だが、四、五日たつと、客の燗 するばかりが能やないと呑む。酒屋への支払いが滞ったのを機に、店仕舞。
　二階から往来を見る柳吉、筋向かいの果物屋が繁盛。それを見て、自分も果物 屋を始める事に。露店で西瓜を売った経験のある種吉から学ぶ。また、厚く切る 種吉。切り身で釣って、丸口で儲けるんや。損して得とれとはこの事や。
　遊郭への御用聞きで、人気を集める蝶子。しかし、桃などは足が早く、捨てる 方が多い。
　尿の出が悪くなる柳吉、まじないに、屋根瓦にへばりついた猫の糞を煎じて飲 ませる蝶子。しかし、効果はない。市民病院で診断、腎臓結石。
　悪い事は重なり、母のお辰も子宮癌。店を売って250円を手に入れたが、入院 費用はかさむばかり。死期の近いお辰は、心も仏様のよう。対して、小言ばかり 多い柳吉。
　実の娘を伴って、妹の見舞い。セーラー服を着た娘、蝶子が頭を撫でると、顔 をしかめる。妹は理解があり、姉さんの苦労は父も知ってますと、そっと金を握 らせる。100円。
　母の死、懸案の葬儀代は、かねて出入りの葬儀屋が出してくれる。保険で500 円、精進落としに香典返しで、差し引き200円。うち100円を蝶子にやる種吉。
　退院した柳吉、温泉で養生。費用は蝶子がヤトナで仕送り。実家にいる蝶子に 対して、近所の金持ち、妾になれと催促。
　温泉で芸者遊びをする柳吉、駆け付ける蝶子。盃を投げて芸者を震え上がらせ るが、落ち着いて後、その芸者を呼んで遊ぶ。
　またも二階借り、ヤトナ勤め。柳吉の病後の薬代で金は溜まらず。
　昔のヤトナ仲間の金八と、交差点で出会う。鉱山主の妾になったが、本妻が死 んで後妻になる。良い身なり。1000円でも、2000円でも、いるだけ貸そうと言う ので、身に付けているものを片端から褒める蝶子。
　金八の援助でカフエを始める蝶子、店を探すといくらでも出物があるので、こ の商売も楽じゃなさそうだと判る。下寺町の店を800円で購入。店の名は蝶柳、 娘は和洋だが、雰囲気は和風。
　連日、女給の面接。うさん臭いが、試しに色気のあるのを雇う。客と外で会う 女給、それを習う同僚。全員に暇を出し、新しいのを雇って危機を逃れる。
　若い娘が増えて、新聞記者の客が増える。客と馴れる余り、一緒に新地に繰り 出す柳吉。また、折檻。
　娘を引き取ろうと言う蝶子、実母は事あるごとに蝶子の悪口を吹き込んでいる。 たまに訪ねる娘、英語たらもん難しかろうと機嫌を取る蝶子に対して、鼻で笑う 娘。
　柳吉の父の死亡。葬式にも出てはならないと言われて、早合点して、ガス自殺 を計る蝶子。夜、柳吉が帰って善処、未遂。
　またも行方をくらます柳吉。30日後、妹婿の前で女と別れたと見せかける為の 芝居だったと姿を現す。夫婦で法善寺の夫婦善哉を食べに行く。
　やがて、浄瑠璃に凝る夫婦。蝶子の三味線と柳吉の語りで二等、景品は座布団。

放浪

　岸和田の雑貨屋・康太郎、おむらと結婚して文吉、順平を設ける。おむら他界 して、康太郎再婚。文吉は姉婿の金造の養子となり、順平は母方の祖母が引き取 る。
　口汚いお婆。脱腸の気で、寝小便の絶えない順平。夜中に叩き起こし、幼い順 平に対し、意地悪く、わりゃ継子やぞ、と教える婆。
　祖母が死んで、康太郎に引き取られる順平。姉は継母の連れ子、弟は腹違い。 姉は美人で聡明。文吉、順平は成績も悪い。
　みかん山を持つ金造、欲張り。男種がないので養子を迎えたが、娘に男の孫が 生まれると、手の平を返す。牛舎掃除、みかん取り、肥料汲み、薪割り、子守と、 文吉をこき使う。
　康太郎、悪臭を放ち、頭もおかしくなって、死亡。
　順平、叔母おみよに引き取られる。叔父が貯金通帳を作ってくれていると、小 遣いを断る文吉。子供心に、騙されていると思う順平。
　市内で料亭を営む叔母の家、ひとつ年下の義妹・美津子、肌が白くて美しい。 夕飯、漬け物の余り醤油を舐めていると、今日からは料亭「丸亀」のぼんぼんや さかいと、たしなめられる。
　小遣いを貰い、美津子とともにアイスクリンを食べて、同じ養子でも文吉とは 大違いと面喰らう順平。
　銭湯にゆくつもりが、間違えて隣の果物屋に入り、一銭だけ置いて、手近なみ かんを取って帰る順平。ところが、それは一個三銭の品。ぼろい事をしたと、微 笑み、からかう家人に対して、すんまへんと土下座する順平。
　小学五年、叔母に世辞を言い、料理場で雑用を待つ順平。板場の腕を仕込んで 行く末は美津子の婿にという、叔父の腹を知っての事。
　叔父は裸一貫で大阪へ出た苦労人。土方、沖仲士、板場、夜泣きうどん、おで んの屋台ひきを経て、生国魂神社前に仕出しの店を構える。順平を仕込むのに、 まず水からと鍛え、大根を切り損ねて指を切ると、けんが赤うなってるぜと叱る。
　祭りに晴れ着をきると、美津子の婿になれるという確信で、美津子を見る眼が 貪欲になる順平。ぼんぼんらしく甘えよう、包丁で立ち回りを演じよう、お菜に 苦情を言ってやろう、叔父叔母はどんな顔をするかと思いながら、実行しかねる 順平。
　美津子の行水を覗き見る順平、煩悩。板場の木下が、良い先輩になる。東京で 苦学した木下、震災で大阪へ。
　十六才、木下に男前とおだてられるが、鏡を見れば、垂れ眼で鼻が低く、顎が 小さい。兄の文吉そっくり。
　十九才、丸亀を支えられるほどの腕になり、叔父叔母を喜ばせる。しかし、美 津子には嫌われる。関西大学の生徒と付き合う美津子、この学生には「エスプリ」 がある。ルート３と封をした手紙のやり取り。神社の境内で睦み合い、捨てられ る美津子。
　美津子、妊娠。真相を聞いた両親、改まって順平を前に、ふつつかな娘だが嫁 に貰ってくれと迫る。順平「阿呆の自分にもこれだけは言わしてほしい。けれど、 美津子さんは御承知の事でっか」　予め逆ねじを喰わされていた美津子、わてと あんたは元から許婚ととぼける。嬉しそうな順平、阿呆ほど強いものはない。
　婚礼準備の鯛を焼く順平、兄・文吉の訪問。初夜、美津子の寝床に入って、突 き飛ばされる順平。
　千日前で、兄にまむしや魚を振る舞う順平。貯金通帳の話は嘘、こき使われる ばかり。美津子に冷たくされても、兄の為に辛抱して店を継ごうと決意する順平。
　名前ばかりの亭主、美津子の出産。それなりに愛情が湧き、赤ん坊をかわいが る順平。しかし、耳から湯が入って病死。誰のせいと噂されて、便所でこっそり 泣く順平。木下、今まで言おう言おうと思っていたがと、順平を慰める。こんな 欺瞞的な家にはおれぬと、東京へ帰る決意。最後の夜、ふたりでカフエへ行く。
　大八車を引いて、岸和田の青果市場まで筍を運ぶ文吉。手にした30円で、つい 市内へ行く。うなぎを食べて27円、映画を観て26円80銭、クルマに乗って26円16 銭。遊郭に通されて16円16銭、寿司を取って11円16銭、延長に応じるが女は眠る。 翌朝、下駄を買い、鳥打ち帽を買って、1円60銭。ラムネを飲んで1円10銭、うど んを二杯食べて92銭。薬屋で猫いらずを買い、天王寺公園で自殺。口から煙を吹 き、のたうち回る。
　病院で息を引き取る文吉、駆け付ける順平。金造への怒り。しかし、葬式では 30円は弁償すると約束。その夜、遊郭へ行くが女には手を出せず。
　早朝、店に戻った順平、200円のへそくりを持って家を出る。外聞を憚る叔父 夫婦。叔父は身代を譲るつもりだった、美津子は体裁が悪い。
　千日前の安宿に泊まる順平、昼は映画、夜はバー・リリアンに通う。高峰さん と本名で呼ばれる嬉しさに、5円、10円と消える。
　注文した雑煮にけちを付ける順平、見知らぬ男の仁義を受ける。オイチョカブ の北田に誘われて、新世界で博打。始めは勝つが、やがて有り金を取られる。そ れでも、北田を恨む気になれない順平。シチューを御馳走されて頭を下げる順平 に、哀れを催す北田。
　盛り場でエロ写真を売る北田、サクラを勤める順平。また、古雑誌のばらして 綴じたのを天満裏で売る事もある。
　仕事に飽きた北田、身内への無心を順平に勧める。丸亀だけはと拝み、今は看 護婦をしている義姉の浜子に無心。病院の外で意見する浜子、「姉さん、出世し まっせ、今の暮らしから足を洗うて真面目にやりまっさ」と涙を流す順平。５円 を得る。陰で覗いていた北田、お前は泣きたんがうまいと褒める。
　美津子、再婚。その話を浜子に聞かせて泣きたん、また５円を得る。
　木下を頼って東京へ出る順平。焼き鳥の屋台を引く木下、薄い酒を出し、儲け の四割で暮らし、四割を貯金、残り二割で女を買う。店を手伝う順平。良い腕が ありながら、料理場に戻りたがらぬ順平。その奥に美津子の事がある。
　浅草の寿司屋に就職。腕はあるが、気が良いので使い回される順平。あがり、 さび、皿洗いと、雑用の毎日。脱腸が悪化して手術、10円貰って大阪に帰る。
　リリアンへ行く順平。目当ての小鈴は別府へ。北田も何と、小鈴を追って別府 へ行ったとの事。残金20銭。浜子を訪ねると、薄給の中から７円。それで別府へ。
　迎える北田を兄貴と慕う順平、実は旅館の客引き。小鈴は女中で、夫婦共稼ぎ。
　ふぐ料理店へ勤める順平。ひと月後、板場のいない早朝に不意の客、安請け合 いして包丁を取る順平。ひとり、死亡。
　留置場で香典泥棒と同居する順平、威厳のある様子に、つい選挙違反の議員と 間違えて毛布を貸す。
　責任をすべて順平に押し付ける料理店。北田、義憤を押さえて、周囲を泣き落 としにかかる。順平、一年三ケ月の刑。
　徳島刑務所、そして仙台刑務所。護送中の飴パンが嬉しい。
　出獄して大阪へ、千日前の木村屋でコーヒーとトーストを食べる。夜更けて生 国魂神社裏へ。風呂へ行く美津子を遠くに拝むと、涙が溢れる。わいを見てくれ との一念、振り向く美津子。しかし、気付かない。
　安宿で起きて、刑務所でないと気付き、朝寝を貪る幸せ。浜子を訪ねるが、不 在。思案に暮れて玉江橋に立つ順平。不注意で財布を川に落とす。眼の前が真っ 暗になるが、その手を見れば、血色も良く、板場の修業に冴えた美しさ。この手 があるうちは、わいは食べてゆけるんや。
　交番を探して迷い、道に佇む順平。

競馬

　後方の馬ごみに包まれて、諦めかけていたような馬が、直線コースでぐいぐい 伸びて、単勝200円の大穴。続く障害レース、人気馬が三頭も落馬して、腐れ厩 舎の腐れ馬と笑われていた馬が単複200円配当。馬主までほかの馬に賭けていた 程の番狂わせ。
　こんなレースが続くと、誰も彼も得体の知れぬ魔に憑かれたように馬券の買い 方が乱れる。血統や馬の癖まで調べながら、場内で印も付けてない馬を買う。本 命狙いしかしない男が、バドックで馬の脱糞を見て、あれは興奮剤のせいだと賭 ける。三番片脚乗らんか、という呼び声は、大穴狙いの三番買いだが、ひとりで 買うのは馬鹿らしく、四人で出資しようという申し出。人々はもはや、耳かきで 掬うほどの理性すらなくしてしまい、右往左往する様は狂気じみている。
　朝から一番ばかり買う寺田。行きあたりばったりに思案を変える人々の狂気か らは遠いが、その一徹さがまた普通ではない。
　元中学教師の寺田、遊び馴れぬ酒場へ行き、そこのナンバーワンの一代を妻に する。あの律義者がと回りは驚いたが、一代の方ではその生真面目さを見込んだ。
　実家は寺田を勘当、それが知れて中学も退職。家でぶらぶら過ごす寺田、一代 の体を弄ぶだけが楽しみ。
　一代、乳癌。さらに再発して子宮癌。痩せる一代、癌特有の悪臭、モルヒネで 痛みを紛らわす。注射が切れた時の苦しみは生き地獄。注射嫌いの寺田、看護婦 がいなければ打ってやらねばならず、やがて馴れる。
　一代あての、昔の男からの葉書。競馬場で待ち合わせの誘い。かつて深い仲だっ たかのような書きぶり。
　鎮痛薬、強心剤を打つ毎日。一月後、一代の死亡。しかし、過去への嫉妬だけ はぼんやりと残る。
　雑誌編集の職に就く寺田、競馬狂の作家に原稿料を渡す為に競馬場へ赴く。ア ンナ・カレーニナの競馬の場面さえ、本物ではない。競馬は女より面白い。釣ら れて馬券を買った寺田、160円の配当を得て病み付き。
　小心な男ほど、深く溺れるのが競馬。六日目、資金の尽きた作家は姿を消す。 しかし寺田は、高利貸しから金を借りてまで続ける。
　八日目、淀の最終日、一代の形見の着物を質に入れて来た。忘れた筈の一代へ の想いに衝き動かされ、一番狙いを続ける寺田。不思議と、一番大穴が当たる。
　さすがの人々も今日は一番が当たると気付く。しかし、そろそろ一番を敬遠し たくなる競馬心理を嘲笑するように、また一番が入る。本命でも人気割れで好配 当。
　第九レース、またも160円の大穴。窓口で前にいるジャンパーの男、やけに色 白で、美男。その男も一番狙いを続けている。
　淀は終わり、小倉へ。競馬よりも、一番を追いたい一心で九州へ行く寺田。旅 館で浴場へ行くと、かつてのジャンパーの男。背に一文字の入れ墨。訳を聞くと、 女難で退学、炭鉱に入ると、荒くれな坑夫からやっかみ半分で入れ墨を彫られた との事。
　やがて炭鉱を出たが、堅気として生きる当てもない。インケツの松と名乗って の渡世稼業。男も泣かし、女も泣かし、面白い目にも会って来た。
　聞いて安心した寺田、四条通りの酒場を持ち出すと、開店以来行った事はない と答える。しかし、あそこの女給で競馬好きの女を知っている。教師と世帯を持っ たのは馬鹿だが、あれだけの体の女は珍しい、……おや、もう上がるんですか。
　睡眠薬を注射して眠る寺田、見つけた女中がメタボリンを所望する。
　小倉競馬場の初日、朝からすり続けた最終レース。有り金すべて一番に賭ける 寺田。一番ハマザクラの出遅れ、駄目だと叫ぶ寺田。いや、あれは追い込みだと の声に振り向くと、ジャンパーの男。正面を見れば、ハマザクラが先頭と並んで いる。喜んだ寺田に対して、追い込みが先頭に立ってどうすると叱る男。残り200ｍ、 鞭を使う騎手。逃げろ、逃げろ、逃げ切れと叫ぶ寺田。残り100ｍ、三番が 追い込む。あと50ｍ、競り合い。夢中で怒鳴った寺田、ハマザクラのゴールイン。 大穴だと絶叫して、ジャンパーの男と抱き合う。

織田作之助、略歴

　1913.10/26、大阪天王寺上汐町に誕生、生家は「魚春」という仕出し屋。姉二、 妹一。
　1931　18才、京都大学に入学、国木田、有島、ポー、ボードレール、ドストエ フスキーを耽読。
　1934　21才、吐血、療養。大学近くの酒場ハイデルベルクの女給・宮田一枝と 同棲。
　1936　23才、中退、創作、放浪。
　1939　26才、日本工業新聞社に入社。一枝と結婚、堺市丈六に新居。
　1940　27才、退社、創作に専念。「夫婦善哉」
　1942　29才、長編「五代友厚」
　1943　30才、「わが町」エノケン一座にて上演。西鶴「武家義理物語」現代語 訳。
　1944　31才、一枝死去。「わが町」東劇上演。主演女優の輪島昭子と同棲。
　1945　32才、「ニコ狆先生」　放送劇「猿飛佐助」
　1946　33才、歌手・笹田和子と結婚、離婚。多作。吐血。太宰治、坂口安吾と の座談会。
　1947　1/10、吐血、永眠。天王寺区楞厳寺。

参考
　青空文庫　公開作品多数
　織田作之助研究　研究歴二十年という宮川康さんのサイト。
　東京紅團　織田作の大阪を歩く、地図もあり、詳しく良心的。
　東京紅團　上記サイトの東京時代編、東京の人にこんなに愛されているなんて。
　同人社文学館　写真付きで、夫婦善哉が読める。
　ひょうたん島独立国　織田作映画祭の紹介。
　大阪を愛した織田作　中央図書館だかどこかのページ、前ページは宮武外骨の紹介。
　銀河のオリオン　織田作の詳しい年譜。
　松岡正剛の千夜千冊　夫婦善哉の紹介と織田作の生涯。
　オダサク倶楽部　藤沢恒夫の紹介文。
　みっきーの独り言　陽気な織田作紹介。
　自由軒と織田作之助　卵をあしらったカレーの紹介。

寸評
　これほど風俗を絡めた作家はいません。元禄の西鶴にしても近松にしても、あちこちに言葉を残してくれてます。 だというのに、関西人は関東の人ほど本を読まない。郷土愛にも乏しいというのは、どういう訳なんでしょうか。





和洋装、長身でカッコ良い織田作之助

　↑　これは、十三代目石川五右衛門のモデルになってるんじゃないでしょうか。しかも、頽廃派作家が集ったのは銀座のバー「ルパン」　

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