灰色の狼
　ムスタファ・ケマル

　　ブノアメシャン、牟田口義郎、筑摩書房、1965。

続き

イスメト、ハリントンと衝突

　一刻の猶予もない情況の中、ロンドン宛のハリントンの電報の写しを入手し、 その人格を判断するムスタファ・ケマル。相手は軍人というより、外交官。イギ リス高等弁務官は、司令官としての素質を備えてはいなかった。ケマルはそれを 見抜いた。
　ケマル談、「イギリスが干渉の意志を持っていたなら、もっと早くスミルナ進 駐以前に介入していただろう。諸君はイギリス海軍を見ただろう。あの艦隊は町 を射程に収めながら、一度も砲門を開かなかった。イギリスは、昨日、動かなかっ た。明日になっても、これ以上身動きする事はないだろう」

チャナク作戦とムダニア休戦条約

　だが、これは賭けだ。ひとつ判断を誤れば、四年に渡る戦いの成果を失うかも 知れない。
　ムスタファ・ケマル策、チャナク作戦。
　9/29、早朝、ケマルから詳細な訓示を受けた精鋭二個連隊、イギリス軍陣地を 目指して前進。ただし、銃は逆さに担ぎ、一発も撃ってはならず、ただ黙々と塹 壕を突破するのみ。緊張は刻一刻、耐えられないほど増大する。
　ただし、イギリス軍の方も厳命を受けていた。トルコ軍は阻止しなければなら ないが、先に発砲しても、武力に訴えてもならないと。
　一触即発、双方の将校の神経は千々に砕けそう。トルコ軍、鉄条網越え。あと 少しで両軍は接触。
　ひとりの英国将校、「狙え、銃」と叫ぶ。動ずる事もなく、トルコ兵の前進。
　英軍の伝令、オートバイにて現地大佐に急報。
　英国将校全員、「捧げ、銃」の命令。同時にトルコ軍二個連隊の隊長、「止ま れ」の命令。
　両軍とも、現在地に停止、流血は避けよとの命令を受けた。
　これは新たな世界大戦の引き金になると考えたフランス政府、フランクリン・ ブイヨンを全権大使としてムスタファ・ケマルの下に送る。フランス全権大使は、 イギリス、連合国の利害をも代表してケマルに面会した。
　フランクリン・ブイヨン、トラキアからのギリシア軍の撤退、ヨーロッパ領ト ルコの回復を約束。
　一発の弾丸も撃たずに、すべてを手に入れたムスタファ・ケマル。彼の計略は 当たった。
　10/6、ムダニア休戦会議。英仏伊土代表会議、英代表はチャールズ・ハリント ン、トルコ代表はイスメト。
　英、コンスタンチノープルを含むヨーロッパ領の放棄。さらに、ギリシアのト ラキア放棄を請け負う。トルコ、両海峡の国際的権益の考慮を約束。
　10/11、ハリントン、イスメト、全面停戦締結。仏伊、副署。

　ムスタファ・ケマルの勝利、彼はアルメニア人、クルド人、ギリシア人に勝ち、 フランス、イタリア、イギリスを圧倒した。

ケマルと反動パシャたちとの不和

　ケマルの野望、スルタンを廃する事。アンカラとコンスタンチノープルと、ト ルコは二つの政府を戴いてはならない。
　アンゴラ郊外チャンカヤの質素な邸宅に住むムスタファ・ケマル。
　チャンカヤ集会、レフェト、アリ・フアド、ラウフ。
　ラウフ、「スルタンとカリフとを廃止するつもりなのか」
　ケマル、「メヘメト六世は祖国の裏切り者、これ以上言うべき言葉はない。し かし、スルタン制度は神聖にして犯すべからざるものである」
　レフェト、同調。アリ・フアド、発言を控える。
　ケマル以外の将軍達は、まったくの戦士で、愛国者である。政治家でも、革命 家でもない。王への忠誠、伝統の尊守については、揺るぎないものがある。
　内政について、将軍は手足にならない。またしても、一人で行動しなければな らない。

メヘメト六世への怒り

　1922.10/、ローザンヌ国際会議。連合国、平和条約の締結について、トルコを 招待。ただし、招待状は二通。アンゴラと、コンスタンチノーブル。
　テウフィク・パシャ、スルタンの名の下に、招聘を受諾。
　トルコ全国民の憤激、スルタンを国民の代表とは認めない。
　自分の考えに確信を抱くムスタファ・ケマル、頑固な友人達は押し切ろう。

スルタン制の廃止

　10/30、スルタンへの怒りに湧く大国民会議。議員が代わる毎に、非難の調子 は高くなる。
　ムスタファ・ケマルの発言、「スルタン制をカリフ制から切り離し、メヘメト 六世を国外へ追放すべきである」
　ムスタファ・ケマル、腹心の議員八十人とともに、即時採決を要求。国民議会、 提案を立法委員会へ回す。
　11/1、立法委員会、その構成員は大半が弁護士と聖職者。コーラン、神学書を 引用し、枝葉末節に到るまで細々と論ずる議員達。
　ムスタファ・ケマル、「もう沢山だ、諸君のお喋べりを聞いてもう二時間にな る。問題は、しかし単純なのだ。自身の運命を決する至上の権利は国民のうちに ある。オスマン家がこの特権をわがものにし、トルコ民族を統治し、六世紀にわ たって支配し続けたのは暴力によってだ。これらの横領者に対して立ち上がり、 主権を取り戻すのは国民なのだ。それは何人も反対できない規制事実だ。同委員 は、自然に基づいたこの見解に与した方が良い。反対しても、現実は動かしがた い。その時は、諸君の首が落ちるかも知れない」
　委員長の起立、我々の見解を修正した方が賢明と委員会に呼び掛ける。
　ムスタファ・ケマルの殺意の下、法案を早急に仕上げる委員会。
　委員会、法案に賛成。スルタン制とカリフ制との分離案、賛成。スルタン制の 廃止、賛成。メヘメト六世の国外追放、賛成。
　会議終了、そそくさと議場を去る委員達。彼らは、ムスタファ・ケマルが今に も飛び掛かるのではないかと恐れていた。
　ムスタファ・ケマル、議会での宣言。「国民議会は、一九二一年一月二十日の 立憲的法律が、国是の主張するトルコ領全域に適用される事を決定する。したがっ て、全トルコはアンゴラ政府の行政下に入る。一個人の主権に基礎を置いたイス タンブール政府という形体は、すでに歴史の領域に属してしまっているとトルコ 人民は考えるからである」
　スルタンの名を挙げずに、スルタン制を廃止。しかも、民主陣営の諸外国には 文句の付けられない内容。
　ムスタファ・ケマル、議会に対し、満場一致での採択を要請。しぶる議員、苛 立つ同志議員。挙手による採決、四十人の挙手。ムスタファ・ケマル、「満場一 致で採決」と宣言。議員の抗議の中を、憲兵に守られて退場するムスタファ・ケ マル。しかし、その夜、国民はチャンカヤの邸宅に喝采を送った。

メヘメト六世の逃亡

　1922.11/3、スルタン政府、自壊。
　11/5、レフェト、コンスタンチノープルの行政権を掌握。スルタン制の廃止を 公式発表、以後はアンゴラ政府がトルコを代表する。
　11/15、ハリントン、スルタン宮廷の楽長の訪問を受ける。「メヘメト六世は イギリスの保護を切望している」
　11/17、イギリス赤十字の救急車、王宮に到着。ヴァーヘドディーン、その息 子、トランクを持った宦官を乗せる。ドアにこうもり傘が引っ掛かる。濡れたく ないので傘を閉じず、無くしたくないので手放さず、四苦八苦するスルタン。
　港から、モーターボートで英巡洋艦へ向かう。艦上で、トランクを無くしたと 言って宦官を叱るヴァーヘドディーン。しかし、トランクはモーターボートで見 つかった。トランクには、黄金製のコーヒー道具と、集められる限りの宝石が入っ ていた。

第四章　ケマル、イスラムを追放す（1922-1924）

ただトルコあるのみ

　あらゆる困難に打ち勝ったムスタファ・ケマル。インド、アフリカ、マレー、 ペルシヤ等、全イスラム諸国から、名誉の剣が届けられ、シナ、ハンガリー、ア メリカからも祝電が届いた。彼は今や、第三世界のチャンピオン、防衛者だった。 ペルシヤ、アフガニスタンは同盟を求め、インド、シリア、エジプトは援助を求 めた。ソビエト代表フルンゼの訪問、ソビエト大使館にて大夕食会。
　しかし、栄光に動じないムスタファ・ケマル。その目的は、近代トルコの設立 のみ。歴史的大人物に欠けているのは、その野望に節度を加える事。ケマルは、 その目的と終わりとを見極めていた。

ローザンヌ会議

　1922.11/21、ローザンヌ会議開催。トルコは、戦場で真価を発揮したように、 外交でも力を奮えるか。
　英外相カーゾン卿は大柄で、外交経験豊富で、トルコ代表を見下していた。ト ルコ代表はイスメト、小柄で、大きな眼はくるくる動くが、やや耳が遠く、時に はわざと聞こえないふりをした。
　西欧は協調が乱れていたので、イスメトは提議された問題につき、その都度、 その都度、最良の協力者を選んだ。
　ローザンヌでは、ギリシア代表ヴェニゼロスが、まるで追放の憂き目に合った かのように、端で小さくなっていた。イスメトは彼を味方にすべきだと思った。 昨日の敵に手を差し延べるイスメト、その手をしっかりと握りしめるヴェニゼロ ス。幾世紀にもわたる不和は、地の底に葬られた。
　モスル州について、イギリスは絶対に譲らなかったので、この油田地帯はイラ クのものとなった。また、両海峡はトルコ領ながら、その国際的重要性のため非 武装地帯とされた。
　しかし、イスメトは前例のないほど、外交的勝利を収めた。トラキア、アナト リア、キリキアは正式に領土として承認された。治外法権は決定的に廃止。旧帝 国の負債は、政治問題からは切り離され、新生トルコ政府の善意にのみ依存する 遅延金決済となり、国際民事上の扱いとなった。

　1923.10/3、最後の連合国部隊、トルコから撤退。

野党、ラウフの周囲に集まる

　戦争集結、ムスタファ・ケマルの独裁権、失効。
　ケマルの独断に対する、ラウフの不満。また、トルコの闘争は終わったと感じ る議員達。
　ラウフの唱える緊張緩和政策、それに同調するキアジム・カラ・ベキル、レフェ ト、アリ・フアド、アリフ。
　いずれ連中とは、たもとを分かつと予想していたムスタファ・ケマル。しかし、 苦しみはあった。アンゴラ議員がコンスタンチノープル政府へ走った時のように。 信頼できるのは、イスメトとフェウジのみ。
　1923.9/、ムスタファ・ケマル、総選挙の決意。これは、トルコの将来像を明 確にする目的。

ケマル、トルコ人民党を創設

　かつて、ケマルは軍人だった。これからは、専ら政治家として活躍せねばなら ない。
　国家に恩恵の深いケマル、そのケマルを排斥する画策は、つねに議会から提出 された。議員たる者は、トルコ国境内の出身でなければならないとする法案が提 出された。これは、却下されたが、サロニカ出身のケマルを狙い撃ちしたものだっ た。ついで謀議を好む議員団は、議員は選挙区に五年以上定住しなければならな いと言い出した。ムスタファ・ケマルは、ガリポリ、エルズルム、シリア、パレ スチナ、アマシア、シヴァス、サカリア川、ドムル・ブナル、スミルナ、アンゴ ラを転々としていた。国家の楯、建国者そのものと言うべき人物に対して、この 仕打ち。
　戦いの場は、戦場から議会へと移った。彼の武器は、政党しかなかった。統一 と進歩委員会では、理論家や知識人に心底から嫌気がさした。彼は”啓発される ”必要がなかった。”ついてくる”事だけを望む指導者だった。
　1919設立の、抵抗運動の為の地方委員会は、大きな組織に成長していた。それ を、トルコ人民党として再組織する。
　ムスタファ・ケマルの一大遊説。どんなみすぼらしい部落にも足を止め、委員 会と食事をともにし、敬意をこめて話し、彼らの言葉に、父親のような心遣いで 耳を傾けた。
「諸君の組織をしっかりと固めておけ。外敵は去ったが、戦争は終わっていない。 ご都合主義者や裏切り者が、まだ国中にうようよしている」

　意外な選挙結果。トルコ人民党は、ケマルの努力に関わらず、絶対多数を獲得 しなかった。ホジャ（＝イスラム聖職者）は、無神論者の評判の高いムスタファ・ ケマルを支持しなかった。それは多くの票を左右した。
　連立内閣に与しなければ、政権に参加できないムスタファ・ケマル。野党と手 を握るとは、妥協する事である。生涯を通じて、ケマルは他人と妥協する事ので きない人物だった。チャンカヤの自宅に引きこもり、議会には関心を持たないと 声明を発表するムスタファ・ケマル。
　議員代表団の訪問、国会議長と人民党党首の地位は両立しないと説得。ケマル の反駁、「まったく理解できない。統一こそが大事、政党はただひとつありさえ すれば良い。国会議長であると同時に、トルコ人民党の党首であるという事は、 私にとって名誉に関わる事です。私の眼に、それ以外の政党は存在しておりませ ん」

共和国宣言

　10/20、ムスタファ・ケマル、全閣僚をチャンカヤに招待。夕食を囲んで政治 形態について議論。
　閣僚が立法機関の尻に敷かれていては、何もできない。「政治をやるのは閣僚 の職務であって、代議士たちの仕事ではない。諸君は議員の介入に煩わされては ならない。行政権は強化され、立法権から切り離されねばならない」
　ムスタファ・ケマルの提案、全閣僚の辞表提出。いかなる申し出に対しても、 閣僚職の受諾を拒否し、危機の解決をこじらせる。そうすれば、議会は譲歩をす る。
　10/21、内閣総辞職。議会、新政府の組閣。しかし、群小野党は何ひとつ合意 に達しなかった。そこからは、多数派も、協調案も提議されなかった。八日たっ ても、討議は続き、組閣は進展しなかった。
　チャンカヤに腹心を集めるムスタファ・ケマル。イスメト、フェトヒ、さらに、 ドムル・プナルで勇名を馳せた青年将校ケマルディーンも加わった。腹心に対し て、議会で共和国宣言を行うよう手筈を整えるムスタファ・ケマル。
　翌日、議会は麻痺状態。極度の混乱、中には喧嘩をやっている者も。ケマルディ ーンが立ち上がり、ムスタファ・ケマルに調停を頼んではどうかと提案。議員は 安堵して賛成。
　ムスタファ・ケマル、二週間の沈黙。この間、彼はまったくの門外漢だと思わ れていた。
　議員団の訪問に対し、勿体を付けるムスタファ・ケマル。
「諸君の申し入れをお受けしましょう。ただし、条件があります。私の決議案が どのようなものであろうと、議会は討議を抜きにして採択する事。これです」
　議員団の口頭、議長の保証、さらに契約書まで交わして、アンゴラに向かうム スタファ・ケマル。
　ケマルの提案、「議会は立法権と行政権を同時に行使しております。これは行 き過ぎです。いかなる政府も、このような基礎の上に立つ事は不可能。これは政 府ではなく、混乱の場です。トルコは行政権のすべてを付与された大統領によっ て治められる共和国となるべきです」
　ムスタファ・ケマルの読む憲法草案、「トルコの政体は共和国である。共和国 は議会によって管理され、議会は大臣を通して各省を監督し、大統領を選出する。 大統領は国家元首であり、議会と閣僚会議を主宰し、閣僚会議議長である首相や 大臣を議員の中から選出する」
　これらの言葉を聞いて、議員達は化石となった。混乱を回避する為の自由裁量 権が、独裁制を樹立する為に使われたのだ。
　ラウフ、キアジム・カラ・ベキル、アリ・フアドらの到着と反対。しかし、時 すでに遅し。
　四割の議員、棄権。しかし、多数決により法案は採択。
　1923.10/29、トルコ共和国宣言、ムスタファ・ケマル、初代大統領に就任。イ スメト、首相として内閣を組閣。ムスタファ・ケマルは、合法的独裁者となった。 大統領として閣僚の任命権を持ち、議会議長、単一の最大与党人民党の党首、軍 最高司令官を兼ねる。

　さらに、国民からの全幅の信頼があった。

反マホメットの思想

　これまで、手を触れる事の出来なかった問題に取り組む時が来た。カリフ制の 廃止である。カリフ制こそは、ムスタファ・ケマルを単身でアンゴラに追い詰め、 死刑を宣告し、首に賞金まで賭けたものだ。しかし、失敗すれば、農民の支持、 全国民の支持を失うかも知れない。
　イスラム教は、国民の日常生活の深くにまで浸透し、そのすべてを厳しい戒律 の網の目に閉じ込めている。
　フェルディナン・ローの分析、「イスラムは単なる宗教ではなく、政治や法律 でもある。この言い方ではまだ足りない。生活、風俗、しきたりまで、万事が宗 教と区別が付かない。教義に反する危険を犯さずして何事にも手を触れる事はで きない。法律、政治、慣例などはまだ幼稚で、ほとんど進歩していない社会によっ て作られたものである為、イスラム教徒の社会を近代生活に適応させるには超人 的な努力を必要とするのである」
　ムスタファ・ケマルの叫び、「五百年以上というもの、老いぼれたアラブ人長 者の規律と理論、さらに聖職者どもの幾世代にも渡る誇張した解釈とが、民法、 刑法、市民生活の全般を規定してしまった。食事の時間や、寝てる時間に起きる 時間、服の裁ち方、学校の教育、内面の考えまで規定してしまった」
「政治を行う為に宗教の救いを必要とする政治家は卑怯者に過ぎない。そして、 卑怯者は断じて、国家元首の地位を与えられてはならない」
　イスラムは単なる抑圧ではなく、トルコ人にとっては外からの移植だった。征 服者セリム一世がエジプトを征服した時、信者の長の称号を喜々として受けたの が間違いの始まりだった。
　しかし、これは内外に危機を孕んでいた。第一次大戦後、インドやアフガニス タン等、イスラム諸国の訴えで、イギリスはトルコ絶滅政策を引っ込めたのでは ないか。イタリア共和国の大統領がカトリック教会の廃止を唱えたら、世界はど んな反応をするだろうか。ムスタファ・ケマルのやろうとしている事は、これと 同じなのだ。
　しかし、ムスタファ・ケマルは、トルコをオスマン帝国から解放したように、 トルコをイスラムの支配から解放する事を決心した。
「世界は進歩し続けているのに、我々は停まったままである。この事実の為に、 我々は大きな苦しみを受けて来た。今度こそ、我々が先へ行く番である」

野党、カリフの周囲に集まる

　メヘメト六世、亡命に先立ち、カリフの地位を従兄弟のアブドルメジートに委 譲。
　新カリフの就任式に際し、ムスタファ・ケマルは予算を縮小。
　カリフに対して、権限を付与しようと提案する議会に対して、一喝を喰わせる ムスタファ・ケマル。「カリフには権限も職務もない。それは純粋に飾り物とし ての存在に過ぎない」
　アブドルメジートからの、直々の宮廷予算増額の依頼に対するムスタファ・ケ マルの返答。「カリフ制は歴史の遺物。その存在を正当化する資料もありません。 あなたが私の秘書に書いてよこした事は、不適当かつ不法なものであると考えま す」
　シェイク・エル・イスラム（＝カリフに次ぐ高位の宗教指導者）の訪問に対し て、頭めがけてコーランを投げつけ、執務室の戸口から追い出したムスタファ・ ケマル。

　ホジャ、デルヴィーシュらによる中傷キャンペーン。ネタには事欠かない。不 信仰、背徳、徹夜の乱痴気騒ぎ、飲酒と賭博への嗜好、悪魔の化身。
　野党議員、アンゴラを去ってコンスタンチノープルに結集。アブドルメジート を担ぐ用意。
　アブドルメジートの人となり、穏やかな、根っからの貴族。絵画と神学を好み、 バラの栽培で時間を潰しながら、ボスポラス宮殿で非の打ちどころのない五十年 を過ごした。
　カリフとしては、全世界三億五千万人信者を束ねるイスラムの法王。白馬にま たがり、騎士の一団に護衛されて毎週金曜日、聖ソフィア寺院へ詣でる。ウシュ クダルの寺院へ行く時には、特別のお仕着せを着た十四対の漕ぎ手で動く黄金の 船に乗ってボスポラスを渡った。
　アブドルメジートは政治的野心を持っていなかったが、不平分子を惹き付けた。 ラウフ、アドナン、レフェト、キアジム・カラ・ベキルは彼の側近となった。こ の完璧な貴族は、アンゴラにのさばっている酔いどれ野郎とは大違いだ。
　しかし、酔いどれ野郎は警察を持っていた。政敵の動きは、すべて把握してい た。しかし、全国の聖職者の激烈な演説に、有力な軍隊を動かしうる将軍達が付 けば、その反乱はムスタファ・ケマルをも倒してしまいかねない。執務室をぐる ぐる歩き回る、灰色の狼。

カリフ制の廃止

　このような時に、インドのプリンス、アガ・カーンとエミール・アリの二人が、 トルコ大統領に手紙を送り、カリフ権力に対する政府の侵害を抗議し、彼らの精 神界の首長の威厳が尊重されるよう要求した。しかも、その手紙はケマルの手に 入る前に、コンスタンチノープルの新聞に公表された。
　たちまちにして、ムスタファ・ケマルは機会の到来を悟った。アガ・カーンと エミール・アリをイギリスに買収された手先であると非難するムスタファ・ケマ ル。イギリスはまたもトルコの内政にくちばしを入れている。イギリスは一度、 カリフを使って共和国を倒そうとし、今また、ローザンヌ会議で世界が認めた特 権を奪おうとしているのだ。
　ムスタファ・ケマルの読みは正しかった。アガ・カーンとエミール・アリ、” イギリス情報部に雇われた、この二人の有名な手先”が、図々しくもカリフの為 に乗り出してきたと聞いて、議会は憤激の渦に包まれた。代議士たちは、ホジャ、 ウラマー、野党議員、果てはカリフを激しい口調でこき降ろした。そして、野党、 旧政権に味方するあらゆる意志表示は死刑に値するという法律が可決成立した。
　それに追い討ちをかけるムスタファ・ケマルの言葉、「幾世紀にも渡り、トル コ農民が血を流し、死んで行かざるを得なかったのは、カリフの為、イスラムの 為、聖職者の為、これらあらゆる害毒の為ではなかったか。今やトルコは自分自 身の事を考えるべき時だ。これらのインド人や、トルコを災厄に導いたアラブ人 を忘れるべき時だ。トルコは今や、イスラムのくびきを断ち切るべき重大な時に 来ている。何世紀にも渡って、カリフ制は我々の血で私腹を肥やして来たではな いか」
　なお反論する代議士を、たった今可決したばかりの法律によって裁判所送りと したムスタファ・ケマル。それらの代議士は、全員死刑となった。また、アガ・ カーンの手紙を掲載したコンスタンチノープルの新聞の編集者は懲役刑となった。
　人民党の地方委員会、アブドルメジートに対する逆宣伝を開始。地方の動揺は ぴたりと収まる。ホジャ達が反政府的な説教を行うと、農民は野次で返した。
　ムスタファ・ケマルの逆襲。ラウフ召喚、違反すれば議員失格と国外追放の条 件で忠誠を誓わせる。カリフに対しては、生活費を最小限に削減、儀仗兵を解雇、 その側近をコンスタンチノープルから追放。
　1924.3/3、ムスタファ・ケマル、政教分離とカリフ追放とを定める法案を議会 に提出。「共和国は万難を廃して維持されねばならない。ところが、共和国は脅 威を受けている。オスマン帝国という歴史的建造物は、時代遅れの宗教という礎 石の上に築かれている。カリフ、およびオスマン家によって生きている者は、す べて消滅すべきである。宗教的な裁判所は近代的な裁判所に変わり、宗教学校は 国家の学校に席を譲るべきだ。共和国は民族的であり、中央集権的であり、宗教 とは無縁のものでなければならない」
　法案、可決。六世紀もの間、トルコを縛ってきた宗教を、ムスタファ・ケマル は一時間でぶち壊した。
　夜、アブドルメジート追放。深夜、カリフ宮殿に着いた警官隊、アブドルメジ ートをブルガリア国境まで誘導。与えられた物は衣類と、そこからスイスまで行 くだけの旅費のみ。
　翌々日、オスマン家の全プリンスとプリンセスもまた亡命を余儀なくされた。
　法令は徹底的で、その実施は電撃的だったので、国中は息を呑んだ。聖職者も 名士も、茫然として声さえ出なかった。アナトリア全土で、どんなデモも抗議も 抵抗も起こらなかった。興奮の兆候さえ見い出せなかった。
　最大の障壁と見られたカリフ制の廃止も、時宣を得れば、あっけないほど容易 だった。

第五章　ケマルのトルコ（1925-1938）

一九二六年の危機

　異民族の追放は、トルコ国民に社会的・経済的変革を持たらした。かつて、ト ルコ人の大部分は農民か軍人であった。商売や金融に手を染める者は居なかった。 オスマン帝国による伝統的な商業蔑視の為、それらの儲かる仕事は外国人に任さ れていた。商売や金融は、進んでギリシア人やアルメニア人の手に委ねられた。 彼らを追放した事によって、トルコ人は好むと好まざるとに関わらず、商売に手 を染めざるを得なくなった。
　トルコ人は、一朝にして、金融や工業に携わり、汽車を動かし、ボイラーを熱 し、産物を売りさばき、コンクリート製の建物を建築しなければならなくなった。 かつて、異民族が従事していた仕事に就かねばならなくなった。トルコ人はこの 領域に経験を持たなかったので、困難や無駄が伴わない訳にいかなかった。しか し、熱意と努力で、彼らはやり遂げた。今日、トルコの銀行や産業は活動し、鉄 道は動き、トルコ人はトルコの石炭でボイラーを暖め、アナトリアの産物は海外 に販路を持ち、コンクリート建築は林立している。この成果は、毎日の失敗や失 望にめげず、休む事なく働いた無数の個人の努力によるものである。

　これらの仕事は、最初は特に困難を伴った。港湾、道路、鉄道、農業、工業、 すべてが再建するか、ゼロから始めねばならないものだった。
　工業を始めるには、原料が必要である。原料があっても、運搬手段がない。ど うにか運んでも、機械がない。機械があっても、継続する予算がない。どうにか、 すべて揃えても、機械が故障すれば、それを修理する技師も特殊労働者もいない。 すべての領域で、同時に進行する困難と戦わねばならない。
　疲れた家畜が倒れて、歩くのを拒むように、十二年の戦争の後の改革に、アナ トリアの住民はがっくりして、道具を投げ出し、仕事場から逃げ出した。
　指導者の未経験、予算の欠如、優秀な人材の欠如が、これに輪を掛けた。
　1924-25、二年続きの凶作。食糧高騰。
　鉄道、海運、赤字。銀行、建設、鉱山、外資流出で次々に閉鎖。
　ここを好機とする外資系財閥。かつてのギリシア人、アルメニア人の立場に取っ て代わろうとする勢力。
　反対派の台頭。ラウフ、レフェト、アリ・フアド、キアジム・カラ・ベキル、 政府転覆で合意。
　かつて青年トルコ党内閣で財務相を勤めたサロニカ出身のユダヤ人ジャヴィー ド、反対派将軍に担がれる。ジャヴィード、フリーメーソンの高官で、国際ユダ ヤ資本ともつながり。

　1926.7/、ムスタファ・ケマル、港湾建設視察の為にスミルナ訪問予定。
　その三日前、警察、スミルナのアパートを借りていた三人組を逮捕。行列予定 の通りに面し、爆弾を隠し持っていた疑い。
　容疑者、国会議員サイド・フルシードの命令によるものと供述。
　フルシードの供述、レフェト、アリ・フアド、キアジム・カラ・ベキル、アド ナンらが共犯。さらに、ラウフ、ジャヴィードは政権奪取の予定。

スミルナとアンカラの裁判

　スミルナ事件Ｂ級裁判、Ｂ級容疑者、現地スミルナで裁かれ、簡単な審理の後 に絞首刑。
　その中には、かつてムスタファ・ケマルが唯一心を開いたアリフも居た。ムス タファ・ケマルは眉ひとつ動かさず、死刑判決文に署名した。
　Ａ級裁判、アンカラにて開廷。
　ラウフ、ラハミ、すでに国外逃亡。欠席裁判にて死刑宣告。
　レフェト、アリ・フアド、キアジム・カラ・ベキル、地位剥奪、終身非国民の 宣告、ただし軍最高司令官の特別な寛容により釈放。
　ジャヴィード、その神経質な小柄さからは予想もつかない熱烈な弁護。「人民 の怒りは政府首脳に対して高まっている。彼は無能な野心家だ。この裁判は、政 府に対する不満を我々の方にそらす為に仕組まれたものに過ぎない。我々を非難 する事によって、政府は国家再建事業の失敗に頬被りしようとしているのだ。失 敗の理由は、明らかである。我々を指導する地位にある者の無能であり、ガージ によって作られた計画の非常識さの中にある。これらの計画は非現実的で、決し て実現される事はないであろう。ケマル・パシャは立派な軍人である。願わくば 彼は兵営に帰って、こうした問題はそれに通じた人々の手に委ねられん事を。諸 君、どうかこの喜劇に一杯喰わされる事なく、この犯罪の共犯者となる事なかれ」

　ジャヴィード以下の全被告、反逆罪で死刑。
　8/7、裁判長、判決文をムスタファ・ケマルに提出。

　裁判開始以来、被告の釈放を求めて、世界中が運動を展開した。ニューヨーク、 ロンドン、ベルリンのユダヤ人組織は、大赦を求めて大量に電報を打った。ウィ ーンのロスチャイルド家、ロンドンのサッスーン家は、ジャヴィード救命の為に 介入するようイギリス、フランス政府に働きかけた。仏特使アルベール・サロー、 アンゴラ急訪、フランス・トルコ間の友好関係を楯にガージに陳情。ジャヴィー ドの特赦を求め、彼の無罪を保証。
　これらの介入は、彼らが期待したのと反対の効果をムスタファ・ケマルに及ぼ した。これまで疑惑だったものが、確信に変わった。しかも、敵は思ったよりずっ と根深かったのだ。自らに対する反乱は、外国勢力の扇動によるものであり、ヨ ーロッパ財閥がトルコの金融支配を目論んで仕掛けてきたものだったのだ。
　外国の干渉は、どんなものでも、ムスタファ・ケマルを気狂いのように怒らせ てしまうのだ。
　ムスタファ・ケマル、仏特使への返答。「この連中は私の命を奪おうとしまし た。それは、大した事ではありません。私は命を百度も戦場に晒しましたし、必 要ならまた明日にでも晒すでしょう。だが彼らは、トルコ人民の将来を奪おうと したのです。この事について、私は彼らを許す権利を持たないのです」

　ムスタファ・ケマル、判決文に署名。被告達全員、夜明けには処刑。

チャンカヤの舞踏会

　裁判長が去ると、ムスタファ・ケマルは官房長に大舞踏会の開催を命じる。閣 僚、官吏、外国の大使、市内の淑女、全社交界が出席。
　午後十一時、招待客の到着。男は燕尾服、女はデコルテ。
　くちなしの花をボタン穴にさしたムスタファ・ケマル、彼がこんなに上機嫌な のを誰も見た事がないほど。「ダンスを、皆さん、踊って下さい。陽気にやりま しょう。生きている証です」
　６km離れたアンゴラの広場では、死刑囚は闇の中に集められていた。夜半から 早朝にかけて、刑は執行された。

わたしがトルコだ！

　1926.8/8、舞踏会の翌日、ムスタファ・ケマル、国民議会で演説。総じて、説 教調の演説が多い中で、心を揺さぶるもの。
「私の行動のすべては、トルコを力のある独立国家にする為のものであった。ス ルタンについて語るな。カリフについて語るな。人は言う、私は個人的な憎悪に 突き動かされたのであると。その考えは間違っている。私は、諸君を諸君自身の ものとする為に彼らを片付けたのだ。
　私は軍隊を自分のものとし、国家を自分のものとし、権力を自分のものとした。 それでは、私の人民を自分のものにする事が、私に許されないだろうか。昨夜、 命を終えた者達は、私にその事を禁じようとした。彼らは私の生存の唯一の理由、 すなわちトルコ人民を私から離そうと望んだ。私は、彼らの首を地に落とした。 私は、人民と私の間に割り込もうとする者があれば、その都度、同じように行動 するだろう。私がトルコだ！　私を滅ぼそうとする事、それはトルコ自身を滅ぼ そうとする事だ。私によってトルコは呼吸し、トルコによって私は存在する。
　血は流れた、それは必要な事であった。諸君、革命は流血の中で築かれねばな らぬ。血の中に築かれぬ革命など、決して永続きしないだろう。私は、私の事業 が、死後も生きている事を望んでいる。偉大なる運動は、すべてその根を人民の 心の奥深くに降ろすべきである。それこそは、あらゆる力の、あらゆる偉大さの 源なのだ。それを置いては、がらくたと埃しか存在しないのである。
　私は国民のすべてを知った。私は戦場で、砲火の下で、死に直面して、人民の 性格が剥き出しになる時、彼らを研究した。私は諸君に誓う。トルコ人民の精神 力は、世界のどの国の精神力にも断じて引けを取るものではない。
　私は、私の人民の歩みがしっかりとなり、行くべき道を知るようになるまで、 手を取って彼らを導くであろう。その時になれば、彼らは自由にその指導者を選 び、自分自身を治める事が出来るだろう。その時、私の事業は達成され、私は引 退する。しかし、その前には断じて！」

　続く数日、議会と行政を改革するムスタファ・ケマル。立法、行政、司法の三 権を議会に返還。しかし、その議会は人民党の一党独裁。議員は、人民党からの み選出される。彼らが選択する国家元首は、ムスタファ・ケマルを置いて他にあ り得ない。

文教改革

　トルコ人に取って、機械は未知の領域であり、それに馴れさせるには教育が必 要だった。しかし、トルコの教育は、ホジャ、聖職者による宗教教育のほかに存 在しなかった。
　聖職者は、ケマルの革新政策を嫌った。メートル法も嫌った。それどころか、 シェイク・エル・イスラムは、イスタンブール大学の教授がコペルニクスやガリ レオを教える事さえ禁じた。
　ムスタファ・ケマル、すべての宗教学校を閉鎖。非宗教の、新しい教師が誕生 するにつれ、小中学校を創設。ムスタファ・ケマル自身、すぐれた教育者。教師 の前での演説、「人民を、真の国民の位置にまで高めるのは教師なのです。新し い時代、新しいトルコを築こうとしているのは、あなた方、教師なのです。私達 が挙国一致して成し遂げた仕事に未来が下す審判は、ひとえに、あなた方の能力 と献身に掛かっています。共和国は、肉体的にも精神的にも強い人間を必要とし ています。それを作るのは、あなた方なのです」
　教育綱領は、ジュネーヴのジャン・ジャック・ルソー研究所が用いる教育法に 基づいて行われた。
　教育について、ムスタファ・ケマルは外人教師や博士の手を借りた。日頃の排 外思想に矛盾するとの指摘に対する答え。「私は、ひとつの鞄の中に、泥棒をす る外人と、国を豊かにしてくれる外人とを、一緒に詰め込むほど愚かではない」

　ムスタファ・ケマル愛用のモデル農場は、後に農科大学となった。この地は、 革命初期と、セーヴル条約調印の頃から、なじみの深い土地だった。そこを中心 に、講堂、酪農場、図書館、寄宿舎、食堂などが建設された。そこで学ぶのは、 農民の息子、娘達なのだ。
　農科大学だけが、花形なのではない。アンゴラだけでも、ガージ学園と呼ばれ る男女共学の高等師範学校、女子専門イスメト・イノニュ学院、商業高校、実業 建築学校、法科大学、薬科大学、文科大学、中央衛生研究所、音楽院、建築都市 計画学院、文教地区があった。
　同様の教育施設は、スミルナ、ブルサ、シヴァス、エルズルム、ジヤルバクル、 イズミト、イスタンブールに置いても見られた。
　イスタンブールのイスラム大学は、ナチスに追われたドイツ人学者を擁して、 脱宗教、近代化を果たした。
　聖ソフィア寺院さえ、イスラム教から没収。1453、メヘメト二世によって征服 されたユスティニアヌス皇帝建設の旧教会は、ムスタファ・ケマルによって、博 物館と、科学の寺院として生まれ変わった。

ローマ字の採用

　トルコの文字は、アラビア文字であった。アラビア表記は母音を略すので、ト ルコ語には不向きだった。例えばモハメットは、アラビア語では「ＭＨＭＴ」と 記されるので、メヘメトともモハメットとも読まれる。
　アラビア文字の廃止とローマ字の採用、これは、かつて歴史上、どんな革命家 も為し得なかった改革。クロムウェル、ロベスピエール、レーニンもここまで突っ 込んだ改革は出来なかった。
　いつものように、用心深く、段階を追って改革に着手するムスタファ・ケマル。 まず問題を底の底まで検討し、感動的な演説で意見を表明し、まだ抵抗があれば 強制権を発動する。
　聖職者、代議士から農民まで、すべての国民を再入学させる。
　1924、ソビエト、中央アジアのタタール人に対して、ロシア式ローマ文字を強 制。
　その報告書を入手するムスタファ・ケマル、自国にて、トルコ語研究協会を設 立。トルコ語にふさわしいローマ表記の作成を委託。
　1928.7/、コンスタンチノープルにて臨時国会。議員、大臣、官僚、記者、名 士の前で、黒板に文字を綴り、講義をするムスタファ・ケマル。講義は三時間に 及んだ、ガージは教育に関して天性の勘を備えた教育者だった。それは、感服し た列席者の集中と賛意を勝ち得た。アラビア文字がいかに不便で、ローマ文字が いかに優れているかを説き、最後に、聴衆を壇に登らせて字を書かせる。
　全アナトリアの受容と熱狂。黒板とチョークを持ち、町から町、村から村、国 内くまなく講演旅行を行うムスタファ・ケマル。まるで普通の行商人のように、 彼は学校の校庭や市場の広場に店開きして、町民や農民に書き方の講義をするの だった。そして講座の終わりごとに、彼は生まれてこのかた一度も文字を書いた 事のない連中を促し、彼らの名を黒板に、大きな武骨な手で書かせた。
　成功は、彼の予想を越えていた。あらゆる後進国の人民と同じく、トルコ人は 読み書きを学ぼうという強い欲望を持っていた。これこそは、知識に通じる道、 成功へ、裕福へ通じる道だった。無知を克服する事こそ、貧困を克服する事であっ た。
　農民、羊飼い、政治家、記者、老若貴賎に関わらず、全国民が学校に通った。 全国民が肘を突き合わせて、ゼロから出発するのは驚くべき光景だった。
　国民議会、共和国教師第一号を大統領ガージ・ムスタファ・ケマルとする動議 を可決。
　ムスタファ・ケマルが、軍事的才能よりも、人を教える能力の方に誇りを持っ ていた事は認めるべきである。彼は事あるごとにローマ字を褒め上げ、優秀な生 徒には賞を出し、勤勉な者には地位を約束し、成績の悪い者には努力を怠らぬよ う励ました。
　1928.11/3、ローマ字・全国民必修令。進歩の悪い者は処罰、公務員は減俸、 読み書きのできない囚人は出所させず。
　ムスタファ・ケマル談、「私はこの日が、国にとって新しい出発の日である事 を望む。どんなに貧しくても、社会の一員であれば、のけ者にしてはならない。 過去において犯された罪の多くは、無知に起因している。国家は万人に対して法 律を公布している。しかし国家は、国民のひとり一人に対して、その法律が読め るだけの教育を施していなかったら、職責を果たしているとは言えない」

名称の改革と戸籍の作成

　名字を持たなかったトルコ国民。アラビアの風習に習い、父の名を名字とする。 例えば、ムスタファ・ケマルの場合、旧来だと、ムスタファ・イブン・アリ（＝ アリの息子ムスタファ）と呼ばれた。
　土地や由来によって、名字作成を義務付けるムスタファ・ケマル。彼はトルコ 人の父という意味で、アタチュルクを名字に選んだ。イスメトは、勝利の戦場に ちなんで、イノニュを名字とした。
　地名も改正された。
　コンスタンチノープル→イスタンブール、アンゴラ→アンカラ、スミルナ→イ ズミル、ニコメディア→イズミト、アドリアノープル→エディルネ、アレクサン ドレッタ→イスケンデルン、トレビゾンド→トラブゾン、セザレ→カイセリ。

一九三〇年の危機

　イスメト・イノニュを首相に指名。政治の表舞台から遠ざかるムスタファ・ケ マル。
　自宅とモデル農場とを往復する。技師、建築家、文献学者、歴史学者に囲まれ る日々。
　1930、民衆との接触がないと感じるムスタファ・ケマル、孤立生活を抜け出し て、国内視察の旅。
　閣僚や学者の追従とは大違いの現実。凶作で小作人は借金、鉄道は経営難、税 収減。党と人民、国と議会の間に深い溝。
　人民を遠ざけた犯人は誰か、ケマル自身だった。一党独裁の故、不満があって も国民は野党に投票できず、黙っているしか無かった。選挙ごとに増える棄権者 の数。
　国民の為、国民の意見を吸い上げる為、野党創設を決意するムスタファ・ケマ ル。

ケマル、野党結成を決意

　ムスタファ・ケマル、議会解散。
　ムスタファ・ケマル、野党「自由共和党」を創設。マケドニア人フェトヒを党 首とし、ケマル実姉マクブーラ、実力者アドナン・メンデレスを党員とする。
　1930.8/、総選挙。
　新しい議会、政府の浪費について攻撃するフェトヒ。イスメトとフェトヒの討 論、代議士たちの殴り合い、人民党と自由党との果てしのない私闘。議長ムスタ ファ・ケマル、休会宣言。議場の外に出ても、いさかいを続ける議員。

暴動とスト

　ムスタファ・ケマル、報道管制を廃止。
　堰を切った報道、税金は高い、農機具が足りない、食糧は高い、工業化計画は 大袈裟。
　不満分子のすべてが、フェトヒの回りに結集。
　のみならず、聖職者、統一と進歩党員、旧王党派など、過去の亡霊が息を吹き 返した。
　イズミルにて、隠れ共産党によるストライキ発生。
　アルメニア人革命部隊、シリア国境で村々に放火。
　東部、クルド人による反乱。ガリブ将軍、15000の兵を動員するも鎮圧には到 らず。
　1930.12/、イズミト近郊メネメンにて、僧侶シェイク・メヘメトによる宗教動 乱。演説と苦行にて、民心を掴む。近代化とケマル独裁への挑戦。そのカリスマ 性は、鎮圧に当たった歩兵部隊が発砲を拒むほど。
　宗教動乱、コンヤ、アダリア、ブルサへ拡大。

独裁への復帰

　ムスタファ・ケマルの覚悟、トルコ人民はまだ言論の自由にはなじまない。
　ムスタファ・ケマル、戒厳令を布告、報道管制の復活。
　ムスタファ・ケマル、二個連隊をクルド人地区へ派遣。首謀者を処刑、部隊は 追放。
　南部のアルメニア反乱部隊を鎮圧、生き残りは国外追放。
　共産主義団体は解散、イズミトのスト参加者は処罰。
　メネメンの宗教動乱を鎮圧、28人は処刑、1000人は投獄。
　三週間後、全土は平静を回復。しかし、ケマルの思いは苦かった。知的な野党 は、作れなかった。始めて、意志を通す事ができなかった。自由と対話は、彼か ら逃げ出した。

　1932、総選挙、人民党の一党独裁復活。ただし、ムスタファ・ケマルによる党 の浄化。小作農、労働者、中産階級の代表を入党させ、大衆を啓蒙するよう指導。
　ムスタファ・ケマル、十二人の代議士を離党させて、無所属議員とし、政令批 判の権限を付与。
　しかし、無所属議員は、ムスタファ・ケマルを批判するくらいなら、辞表を出 して議会を去る方を選んだ。古来、多くの英雄が独裁を望んで達せられなかった。 ムスタファ・ケマルは、独裁を逃れようとして達せられなかった。

モントルー会議

　ローザンヌ条約第二十三条によれば、ボスポラス、ダーダネルス海峡は非武装 地帯になるとされた。
　その後の欧州情勢の変化を利用し、条約改正を狙うムスタファ・ケマル。ソビ エトを牽制する英仏は、トルコの言う事なら何でも聞いてくれた。
　1936.7/20、モントルー新協定。ブルガリア、フランス、イギリス、ギリシヤ、 日本、ルーマニア、トルコ、ソビエト、ユーゴスラウィア、オーストラリア、ロ ーザンヌ管理体制を撤廃。両海峡の主権はトルコに帰属。トルコは完全に自国の あるじとなった。

ケマルとトルコ革命は一体である

　アームストロングは語る。ムスタファ・ケマルはチムールやジンギスカンに匹 敵する人物。国土が狭かった故に、深さと強さの点で過去の偉人を上回った。
　多くの政治家、その中の最大級の者でさえ、自らが作り出した事業の大きさに、 押し潰されてしまう事がある。業半ばで倒れてしまう者がある。ムスタファ・ケ マルには、そのような所が微塵もなかった。
　その伝記の、もうひとりの主役は、トルコ国民である。彼らは戦いを拒まず、 労力を出し惜しまなかった。戦場でも、工場でも、彼らはつねにケマルとともに 闘った。ムスタファ・ケマルによって、トルコ人は始めて故郷を獲得した。
　ムスタファ・ケマル談、「革命以上の事を為さねばならない。革命は国家の形 態を変える。トルコはまだ存在していない。これから産まれるのだ」

アタチュルクの死

　1938.11/10、ケマル・アタチュルク、永眠。
　いためたエジプト豆以外は何も食べないという粗末な食事、そして肝硬変によ る死亡。
　11/21、国葬、世界からの弔問。

ガージの墓に詣でて

　著者ブノアメシャン、アンゴラ詣で。豪華な墓かと思えば、大理石こそ使って いるが、至って簡素な作りの墓。純潔、無垢、絶対の白一色のみ。

訳者あとがき

　この書は、フランスの伝記作家ジャック・ブノアメシャンの中東三部作のひと つで、後に「砂漠の豹イブン・サウド」「オリエントの嵐」と続く。

　唯一の妻ラティファ・ハヌームについて。彼女は裕福な商人の娘としてヨーロッ パで育ったが、祖国の急を聞き、両親をパリに残してスミルナへ戻り、単身、総 司令部を尋ねて宿舎提供を申し出た。
　スミルナの炎上を見降ろしつつ、バルコニーで熱い抱擁。
　ムスタファ・ケマル、ラティファと結婚。
　それ以前の愛人フィクリーヤは官邸から追放、自殺。

　この伝記にはないが、ムスタファ・ケマルは青年将校時代、日本語を勉強して いた。トルコの宿敵ロシアを破った事につき、オスマン帝国の皇帝が「日本に学 べ」と指導していた。ケマルは生涯、親日家で通した。

　1973.10/、イギリス、第一ボスポラス大橋を建設。
　1988.7/、日本、第二ボスポラス大橋を建設。しかも、工期は半年短縮。
　同、日本の商社、大橋ヨーロッパ側公園に1453本の桜を寄贈。これは、征服王 メフメト二世のコンスタンチノープル征服にちなむ年。

寸評
　これは、現代のおとぎ話です。

　ガリバルディ、ムスタファ・ケマル、そして大山倍達の三頭政治が実現されれ ば、首相も議会もいりません。黙って、ついて行きます。

大統領時代のムスタファ・ケマル

エンヴェル将軍　　　　　　　　　　盟友キアジム・カラ・ベキル









将校時代のケマルとイスメト・イノニュ

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