ルイ・フェルディナン・セリーヌ

夜の果ての旅

　　ルイ・フェルディナン・セリーヌ、生田耕作、大槻鉄男、中央公論社、1964。

　カフェで政治談議をする学生、故国は臆病者の集団、戦争で勇ましく戦って褒美は鉄砲玉。そこへ軍隊の行進、すっかり興奮して、志願兵の列に加わる学生達。市民の声援、抜け出すつもりが抜け出せず軍隊入り。
　どことも知れない戦場、大佐の伝令係りを勤める主人公。遠い地平に二人のドイツ兵が、こちらを狙って射撃している。ドイツ人から恨みを買う覚えはない。仲良くやってきたつもりだ。子供の頃、ハノーヴァに住んでいた事もある。それが今では、頭を狙って撃ち合っている。
　額すれすれの所を、弾丸が飛んで来る。
　開け放された村、家も、教会も、畑もがらんどう。あとには僕らだけ。皆が退散した後、いやらしい行為にかかる新婚夫婦みたいな心境。
　周辺は夥しい死者、自分は歩けない、勇敢な大佐は死が想像できないのか。性欲と同じように、恐怖にも童貞がある。戦場より監獄の方がまし。戦場からは、生きて出られない。
　よちよち歩きで来る騎兵と伝令、墓場から出て来たような様子が、大佐のお気に召さない。軍曹が殺られたとの報告。そこへ、火炎と大音響。
　死んだと観念した。手足はまだ震えている、耳鳴りはするが、眼にひりひりする煙の中で、手足はまだ無事だと確認する主人公。あたりは、世界中の南京虫と虱を一匹残らず退治できそうな程の火薬と硫黄の匂い。
　缶詰ひとつの事で自分を軍法会議に回そうとした軍曹が死んだのは吉報。しかし、大佐、騎兵、伝令は亡くなっている。騎兵には首がなく、穴があるだけ、中では鍋の中のジャムのように血が煮えたぎっている。大佐は腹を割かれていた。あたりに散った肉が一緒になって、すさまじく血を垂らしている。
　未練なく、退散する主人公。こんな良い口実はない。ほかに犠牲者がいないか気になるし、捕虜になるうまい手があるかも知れない。連隊が皆殺しになれば、自分ひとりご帰還だ。そうなりゃ英雄だ。勲章と花束に囲まれて、凱旋門をくぐる。レストランに入ると、金を払わんでも御馳走が出る。勘定の時に、祖国の擁護者と名乗れば良い。金の代わりに、小さなフランス国旗を差し出せば良い。それどころか、勘定係りの娘は、接吻のおまけまでくれるのだ。
　逃げる途中も、どこからともなく弾が飛んで来る。こうやって、当てもなくうろつき回っている所を憲兵に見つかったら大変。どこかの小学校の教室で裁判、明け方には十二の弾丸を喰って処刑。
　ようやく味方の前哨二人を見つける。報告すると、大佐の代わり等いくらでもいらあ、との答え。袋を持って、肉の配給を受け取りに行く。野原での屠殺場、腹を裂かれた羊の群、樹に吊された牛。合流したり傾斜を求めたりする、生ぬるい血の海。あたりでは兵隊が、肉の配分を巡って喧嘩。気が遠くなる主人公。親切に担架に載せられるが、袋は盗まれる。

　何が起こるか判らないもの。伍長に昇進した主人公、五名の部下を宛てがわれる。
　ザントレイ将軍、戦局よりも自分の身の回りの事が大事。どこの露営地でも、こざっぱりとした寝台と、設備の整った台所がないと、雷が落ちる。日が暮れるまで歩いた揚げ句、将軍様の為の宿舎探し。静かな村を探す。万が一、よその部隊が先に入っていても、将軍の権限で退散させる。
　いいかげんな命令を出す、パンソン司令官。用が済めば、連隊へ帰れとの命令。連隊はどこかと尋ねたら、地図も渡さず、バルバニイの方向と指す。その指さす方を見れば、道ひとつない真の闇。命令通りバルバニイを探すには、一部隊全員を犠牲にせねばならないだろう。街灯もなく、照明も持たない時代、夜陰の行軍は手探りのようなもの。そいつは見つかる事もあれば、見つからない場合もある。連隊と、バルバニイとは。集落には立ち寄れない、ドイツの斥候が居るし、同仕打ちの可能性もある。いきおい、野原で夜を過ごす。この時以来、野兎の気持ちが判るようになった。
　上官や憲兵が憎んでいる相手は、ドイツ兵なんかじゃない。部下を死地に追いやり、怒鳴りつける事で自殺願望を植え付ける。
　馬も不憫なもの。鞍の下にあるのは、痩せた二枚の肉片だけ。そこから膿が幾筋も足まで垂れている。身をくねらしながら駆けるが、戸外に置かざるを得ない。納屋に置くと、傷口から出る匂いのせいで、こちらの息が詰まる。
　デ・ザントレイ将軍の方は、貸し切りの家の中で、給士に囲まれ晩餐を楽しんでいる。一人で四十人分の割り当てを受けている。
　たった四週間で、すっかり疲れ、すっかり惨めな心境になる。下士官は下っぱになるほど、愚鈍に、下品に、性悪になってゆく。その為、どんなに忍耐強い人間も生きる事に躊躇するようになる。眠りたい、逃げ出したい。眠る為なら死んでも構わない、と思うようになる。
　まったく別な村に着くと、そこでは将軍様がゆっくりコーヒーを飲んでいる。何の為の、夜を徹しての探索だったのか。
　経験から生まれた、夜道で迷わない方法。露営地で追い立てを喰らう、五人うち連れて砲声のある方へ向かう。日照り続きで、燃えやすくなっている村々。砲声のある方へ行けば、必ず村が燃えている。あんまり近付かないで、離れた所から、ただその村を眺める。ひとり歩哨に残せば、あとの五人は枕を高くして眠る事ができる。
　火炎の中に、すべてが呑み込まれる。教会も、納屋も、光の海に墜落する前に火の粉の髭を生やして夜空に輝く梁。
　残念な事に、そいつは長続きしない。ひと月もすると、郡全体にひとつの村もなくなった。森も長続きしなかった。砲兵部隊と避難民は退却、士気を鼓舞する為に、臆病な兵を銃殺するようになる。

　サーベルで二人殺したサンタンジャンス、それを手放しで褒めるオルトラン大尉。戦場では向こう見ずの大尉、コカイン嗅ぎとの噂。
　物資調達の特務曹長、これ以上の権力はない、世界の支配者。村には何ひとつ残らない。家具は炊事用に壊され、寝台も日用品も、気晴らしの為にかっぱらって行く。
　意に反してオルトランの信頼を得る主人公、夜間の敵中偵察という任務。連隊で一番膿の少ない馬を選ぶ事が許される。
　神に八万の犠牲を捧げるアステカ信仰も、戦場へ行くまでは信じられない話。今では納得がゆく。
　捕虜になる望みしか残されていない。月光に照らされた町が、この世の見納め。どの溝の中で、あの壁のどいつを背に、自分は死ぬ事になるのだろう。エッフェル塔のてっぺんから飛び降りたら、やはり途中であと戻りしたくなるだろう。
　一軒の農家から明かり、フランス語とドイツ語とで、かわるがわる挨拶する。若い娘と、その両親。ドイツ兵によって隣家が焼かれ、弟が殺された。
　さらに行進、捕虜志願の予備兵ロバンソンと出会う。連隊は壊滅、原因は、野原で迷った末での同士撃ち。
　ノワルスールの町に到着、ひときわ大きな家の門を叩く。出るなり、「わたしはノワルスールの市長です、ドイツ軍の到着をお待ちしておりました」
　こちらが同胞であると知り、困惑する市長。今夜にもドイツ軍が入る予定、自分には十五世紀の教会を守る義務がある。妻と二人の娘とが加わり、市長を応援する。引き揚げる二人。
　ロバンソン「お前がドイツ人だったら、俺を捕虜にしてくれるだろうに」　主人公「お前さんこそドイツ兵なら、俺を捕虜にして勲章が貰えたろう」

　パリに戻る主人公。女達は尻をむずむずさせ、爺連はでかい面して、尻を抱き、金をかき集めている。
　戦闘員は英雄、その栄光と、忍耐強い態度とを誰もが真似る。戦時中の事で、本来なら中二階の踊り場が、地下室に変わっている。
　負傷で入院中に、届けられた勲章。治るなり、それを着けて劇場へ行く。すごい効き目だった。パリではまだ勲章が珍しかった。ひと騒動だった。
　アメリカ派遣部隊の一員として、パリに来ていたローラと知り合う。実家は資産家、メイフラワーの末裔。
　戦争は、人類の半分を屠殺場へ送り込む。療養期間を引き伸ばすのに懸命の主人公、戦争の馬鹿さ加減、インチキさ加減が眼に付いて仕方がない。しかし、ずらかる為に必要欠くべからざる縁故関係というやつが皆無。僕の知り合いと言えば、貧乏人ばかり。ローラはと言えば、看護婦としてながら、これほど戦闘意欲に燃えた人物はいない。
　看護婦団の宿舎にはパリッツ・ホテルが宛てがわれている。とりわけ、縁故のあるローラの仕事は、市内の各病院に配布する揚げリンゴの味見役。十時起床、ひと風呂浴びてから、日本の着物を着て、地下食堂でリンゴの味見。
　ひと月で二ポンドも太ったローラ。運動の為に散歩を好むようになる。
　ローラの部屋は男友達の写真でいっぱい。しかし、すぐに馴れる。彼女が求めているのは勇気ある軍人。その役を演じる主人公。本当は、ドイツ軍が攻めて来て、ホテルから、宮殿から、ローラまで奪っても別に構わない。家主がドイツ人であるか、フランス人であるか、マルクで払うか、フランで払うかの違い。
　ローラを横取りしようとする将校連中、彼らにはレジオン・ドヌール勲章がある。しかし、りんごの味見を代わる事で、ローラの心をつなぎ止める。
　ブーローニュの森での散歩。戦争で中止の競馬場、戦前はさぞ華やかな社交場と問うローラに対して、ドレス、令嬢、ぴかぴかの箱馬車と、見た事ない出任せを並べて、かえって満足される主人公。
　デュヴァルの店での晩餐、居合わせる客がみんな寛ぎ過ぎているように見える。戦争後遺症の発作、「みんな逃げろ！」　叫ぶ主人公。「撃たれるぞ、みんな逃げろ！」　発狂。

　中学校の校舎に収容される。しばしの観察の後、前線復帰、精神病院、死刑台へと振り分けられる。菓子や小間物を売る門番の女、十フランで体も売る。しかし、寝物語で仮病や怠慢を話そうものなら、それは主治医に報告される。釘を飲んだ予備兵、半身不随の芝居をした神経患者が、すでに銃殺されている。主人公に対しても探りを入れ、すでに死亡した六人の子持ちの父親の家族手帳を世話しようと申し出る。これは、後方配置に役立つ。
　ローラの見舞い、灰になればおしまいと言って、腰抜け呼ばわりされる主人公。祖国の危機に逃げ出すのは、気狂いか臆病者。だったら、気狂いと臆病者万歳。死んだ兵士の名を覚えているか、それは文鎮の塵、毎朝のうんこと同じくらい無名で、無縁の存在。
　眼鏡のプランカールの話、泥棒で捕まったが、それを免除して前線復帰。どうして国は民衆を戦争に駆り立てるのか。ルイ十四世は、民衆など眼中になかった。ルイ十五世も、民衆など尻を汚すだけだと思っていた。下っ端が休息できるのは、お偉方に軽蔑されている間だけ。ディドロ万歳、ヴォルテールでかした、ついでにカルノー万歳。まず新聞が読めるように、ついで選挙に、そして出陣だ。
　選挙権とひきかえに、国旗を担がされ、風穴をあけられに、フランドルの野原へ引っ張り出された阿呆連のはしり。将軍のデュムリイエ本人は、珍しさ半分に参加したものの、金に目がくらんで逃げ出してしまった。こいつはフランス最後の傭兵だった。ただ働きの兵隊、そっちの方は新発見だった。まったく前代未聞のしろものだったので、ゲーテでさえ、さすがのゲーテでさえ、ヴァルミイ（激戦地）に到着した途端に眼を見張ったものさ。祖国愛という前代未聞のこしらえ物を防衛する目的で、進んでプロシア王に腹わたをえぐられにやって来た、情熱に燃える、ぼろをまとった一団を目のあたりにして、ゲーテは、まだまだ学ぶべき事がたくさんあるという感慨を抱いたものさ。「今日から」と、さすがに天才らしく彼は叫んだものだ。「新時代が始まる」とね。ほんとの話さ！　それからは、この方式がしごく便利とわかって、英雄の大量生産が始まった。そしてますます安上がりになっていった。

　外出許可。オリンピア座の酒場で数時間を過ごした後、下着・手袋・書籍商のエロット夫人の所へ繰り出す。売春で元手を築き、今では卵巣も取った夫人。
　アングロサクソン式の清教主義が日増しに我々をかさかさにしてゆく。すべてが結婚とくそ真面目の方向に向かってゆく。店裏の即席の戯れは、今では陰を潜めたものだ。
　その店では多くの男女が仲を取り持って貰えた。立ったまま安上がりに済ます事もできた。金持ちには儲け話を持ち掛けた。ここは逢引きの場所であり、富裕と奢侈の入り口でもあった。
　パリの金持ちは、ケーキのひと切れのように固まった地域に暮らしている。ルーヴル宮を尖端とし、オートイユ橋とポルト・デ・テルヌの並木が丸い方。そこに入るには、僥倖か縁故に頼るしかない。エロット夫人の店からは、そこに入る事が自由だ。
　多くの商店は戦争のせいで左前。老舗菓子屋は、馬が徴発された為に客が減った。甘党の婦人連は歩いてまでして来なかった。楽譜商は兵隊相手に男色し、愛国者から告発されて廃業。ゴム専門店は時流に乗れた筈だが、ドイツからの輸入が滞った。
　エロットの店だけが繁盛。婦人客、住み込みのほか、歌手や女優の卵が、衣裳よりも借金の方を多く抱えて店に出入りしていた。そんな中に、ヴァイオリン弾きのミュジイヌが居た。
　病院と楽屋とを往復する主人公。軍人、航空兵も多数。だが最大のライバルは、輸入割当の増加で儲けた南米人。彼らはパリに豪華な邸宅を構え、貴族のような暮らしをしている。
　南米人の邸宅へお呼びが掛かるミュジイヌ、召使部屋で恋人を待つ主人公。そのうち、みんなが彼をひも扱いするようになる。
　ミュジイヌの仕事。邸宅での歌手の伴奏、映画館での演奏、そして、軍隊慰問劇場。彼女の脚の見える良い位置を占領したかぶり付きの幕僚連の前で演奏、階段部屋に押し込められた兵隊は音しか聞こえない。将軍の一人が、英雄的行為の証明書を彼女に進呈する。
　こんなに可愛い従軍ヴァイオリニスト、ますます人気のミュジイヌ。召使部屋での毎日、歌声、乱ちき騒ぎ、ピアノ。だが、そのピアノの手はミュジイヌのそれではなかった。では、彼女は何をしていたのだろう。
　青春の大部分は不手際のうちに空費されるものだ。金持ちと、貧乏人と、世の中にはふたつの人種がいる。値段を尋ねずに、執着してはならない。金持ちは神様だと、心得ねばならない。奴らはミュジイヌと一緒に階上に、僕は階下に。ミュジイヌはその未来を、神とともに築く事を考えていた。
　空襲警報、ツェッペリンの到来。地下室への避難、素早く走るミュジイヌ。愚図々々していると怒られる。ここではとんま、向こうでは英雄、どっちにしろ血のめぐりの悪い事に変わりはない。
　傷病兵の移送、いい加減な指図を頼りに、ゆきあたりばったりに出発。着いた所は、新築されたばかりの収容所。門番の女の体を撫で回して、笑わせる。「ドイツ兵かと思ったわ」
　主治医と、四人の看護婦。患者を迎えて、戦意昂揚の為の演説。途中で、婚約者が出征している看護婦が泣き出す。主治医と看護婦らが介抱し、慰め合って、姿を消す。僕達の事はもはや、どうでも良かったのだ。
　看護婦達は、兵隊と運命を分かち合ってはいない。彼女達は、反対に、長生きする事しか考えていない。もっともっと長生きし、恋をし、散歩をし、千度も万度も男に抱かれる事しか。それは顔に書いてあった。
　主治医ベストンプ教授の放電療法。よっぽど金持ちに違いない、この高価な電気死刑道具を一式買い込んでいる所を見ると。彼の女房の親爺は政界の大物で、政府の土地買い上げに絡んで、莫大な利益を上げていた。お陰で彼はこんな気前の良い事ができるのだ。
　ベストンプは優しさを発現し、看護婦はその発現を味わう。思いやり深く、人当たりの良い、人道主義的な雰囲気。その芝居に付き合う事。
　病院で最古参のブランルドル、看護婦の同情を勝ち得るこつ。嘔吐、血尿、呼吸困難くらいでは、看護婦の同情は得られない。そこでこの男は、苦しい息の合間から、「勝つんだ、勝つんだ、俺達は勝つんだ」と絶叫する。もしくは、途切れ途切れに、胸の奥からしぼり出すように言う。こんな演出で、勇敢な戦士の名を欲しいままにしていた。
　劇場はいたる所にあったから、ブランルドルは正しい。女性は、派手な見せ場を求めている。彼女達は、おどおどした素人には容赦ないものだ。戦争は子宮に来るものらしい。
　この病院に来た当初は、みな戦場での恐怖に脅え、小さくなっていた。一週間でみんなが、荒っぽい言葉と不作法で武装した、荒武者の一団に早変わりしてしまった。
　ベストンプの機嫌を取る為、勇敢になる事の困難さを打ち明ける主人公バルダミュ。様々な議論の後、最高の理念は愛国心、保身を捨てた時に人は祖国とひとつになれると結び、感激した教授に手を握られるバルダミュ。

　ベストンプ研究所が愛国心の本拠、中心となり、司教、公爵夫人、戦争成金の訪問を受ける。そして、オペラ座、コメディ・フランセーズ座の全座員の訪問と慰安。最高幹部女優が枕元で詩の朗読、彼女のみだらな赤毛には、そのあいだ驚くべき波が打ち寄せ、それが僕の股間にまで伝わってくる。尋ねられるままに、戦場の物語をすると、彼女はもう僕から眼を放さなくなった。その物語の一部が詩に書かれる事になり、有名な国民画報誌に掲載されるに到る。作り話の下手なブランルドル、主人公に対抗して嘘を吹聴するが空回り。彼の武勲は錯乱の域に達する。
　劇場での朗読会、患者全員が招かれる。三色旗の衣裳に身を包んだ赤毛女の朗読、観客は総立ち、喝采。さらに女優は、招待された負傷兵の方に両手を伸ばす。観客全員の注目、歓声。包帯だらけのブランルドル、桟敷の前方を独り占めして立ち上がり、ほかの兵を霞ませる。わざとだ、こん畜生は。ほかの二人はなおも椅子の上に立って観衆の讃辞に浴する事ができた。「おい、これは俺の話なんだぜ。俺ひとりの」　叫ぶ主人公。
　楽屋で歓迎される主人公。しかし、女優の傍らには痩せた詩人が立っている。二人とも迷惑そうな顔。

　小遣いが不足し勝ちな主人公。かつての雇い主の所へ無心に行く。学生時代、マドレーヌ街の宝石商プュタ氏の所で臨時雇いをしていた事がある。
　軍需で儲かる宝石商、美貌のプュタ夫人は用心深く、美の縁でとどまる。きっちり梳きすぎた髪、とってつけたような微笑、せかせかした物腰。たまに淫売屋に通うプュタ氏、美しいふくら脛を眺める事、できればそれを撫でてみる事を、人生無上の喜びのひとつに数える。それがあるだけ、夫人より進んでいる。夫人は商売一辺倒。
　かつての同僚ヴォアルーズの見舞、そして二人してプュタ氏のもとへ。プュタ氏は国防で市内勤務、大臣を乗せたクルマで全速力で走る毎日。それぞれ二十フランづつくれる。
　ヴォアルーズの提案、戦死した戦友の母親が金持ち、そこで息子の思い出を語れば百フランは固い。
　邸宅に着くと、かねて馴染みのロバンソンと老人が話をしている。老人はここの主、妻が自殺したとの事。二百フランはぱー。三人で飲み喰いをする。

　除隊、アフリカで巻き返しを計る主人公。そこでは、ある程度の禁欲と品行さえ保てば、ひと財産作れるとの事。
　ブラグトン提督丸の航行、前途には密林、大河、大酋長の待つアフリカ。剃刀一袋と交換に、長い象牙、燃えるような野鳥、少年奴隷を取引する。
　ポルトガル沖を過ぎた辺りから、なま暖かい蒸し風呂のような雰囲気。水、海、空気、シーツ、汗、すべてが生ぬるい。酒場のウイスキー用の氷を除いて、何ひとつ冷たい物はない。捨て鉢な気分が乗客全員に襲いかかる。もう酒場から遠ざかる事ができず、金縛りになったように送風機に釘付けになり、氷の小さなかけらにハンダづけになって、トランプをしては罵り合い、支離滅裂な繰り言を連発するのだった。
　白人種がボタンをはだけると、獣の本性をさらけ出す。
　乗客全員の敵意、みんなから気障で傲慢な奴だと思われる主人公。淫売の情夫で男色家で麻薬中毒とまで噂されていると、ボーイから聞かされる。
　肝臓病みの眼病の老いた大尉、朝から仲間に向かって、まだ奴をつまみ出しておらんのか、と尋ねる。それが挨拶。士官連中はみな敵意を剥き出しにし、女教員らは噂に輪をかけている。ひとりのオールドミスが陰謀の首魁。
　食堂から船室へ帰る途中、いちばん胸板が厚く、いちばん筋肉の逞しい士官が前をふさぐ。背後にも四人。「甲板へ出よう」
　貴下の言辞は許し難い、貴下の不満を述べよ、との口上。「大尉殿、何という思いがけない誤解、何と忌まわしい中傷の犠牲になったのでしょう」　弁解する主人公、こちらから手を握る。「自分が引っ込み思案なばかりに誤解を生じた、僕の態度が侮辱と誤解されても無理はない、これからは、彼らの愛国的で友愛的な楽しいつどいに今すぐ皆と同じように参加させて貰いたい」と頼む。手を握ったままの雄弁。
　軍人は人殺し以外の事にかけては、子供同然だ。軍人をまるめる事くらい何でもない。自尊心に見捨てられながらも、実に楽しい境地。自由で身軽になる。人生で土壇場を切り抜けるのに必要なのは、たぶん臆病さだ。
　皆さん、仲直りしましょう、フランス万歳、と叫ぶ主人公。大声でフランス万歳を叫ぶ市民に平手打ちを喰わせるなんて、いかに虫の居所が悪いとは言え、軍人にできる事ではない。ゆきあたりばったりに二人の男の腕を掴み、飲みに行こうと誘う。酒場では、連中の武勇譚に相槌を打つ。作り話もなし、感嘆していれば良い。「ああ、素晴らしい歴史の一ページですね」これで足りる。
　船の寄港、ゴノー港で小舟に乗り、さっさと退散する主人公。

　総督が君臨するブラガマンスの植民地、その下でヨーロッパ商人が盗みと繁栄を欲しいままにしている。土地の隅々まで、連中の略奪を免れる椰子の実ひとつ、ピーナッツ一粒見いだせない。
　官吏達はこんな土地くんだりまで引っ張り出されて、金章と書類を宛てがわれるだけで、金はついて回らない事で、まんまとしてやられた事に気付く。そんな訳で、商人を羨望の眼差しで見る。軍人はいたって鈍感。この三種が、植民地の人間。
　総督を守る傭兵は現地調達、借金持ちの黒人達がその任務に着く。官吏達の中には、総督がいつか自分の女房と寝てくれる事を心頼みに、一生終わる者も少なくなかった。が、総督は女嫌いだった。黄熱病がいくら猛威を奮おうが、総督は嘘みたいに命拾いするのだった。一方、やっこさんを墓場に送りたがっている連中の方は、疫病が流行り出せば、たちまち蝿みたいにばたばた倒れていくのだった。
　熱帯の人間や品物は発散する色彩のせいでまともに見つめる事は困難。それらは沸騰しているのだ。真っ昼間、道の真ん中に放り出された小さな鰯の缶詰ひとつでも、様々に照り映え、人の眼にひとかどの大事件の様相を帯びる。
　生活が凌ぎやすくなるのは、やっと日没から。だが暗闇はたちまち蚊の大群によって占領される。一、十、百じゃない、億単位だ。
　小屋の中に逃げ込めば、白蟻が工事開始だ。年中、小屋の柱を喰う事にかかり切りだ。そのうち、この頼りないレース細工に竜巻でも襲いかかろうものなら、街路は軒並み空中霧散だ。
　ゴノー砦の町はこんなもの。そのくせ、銀行、淫売屋、カフェ、テラス、徴兵局まで揃っていて、都会の体裁は備えている。
　夜になると、蚊群の雲の間で、土人達の客引き合戦。歩行者を捕まえて、腰布の下のものを売りにかかる。しごく低廉な値段で、一、二時間のあいだ、一家族全員をものにする事もできた。性器から性器へ渡り行くのも悪くなかった。
　ポリデュリエル商事小コンゴ支社が新社員の募集、面接。「酒もやらん、煙草もやらんと言うのは、まさか君はオカマではないか。違う？　それは残念だ。経験から言うと、連中の方がほかの奴らより盗みを働かんかんな」
　女中を叱りつけてボーイを呼ぶ支配人、またしごく悠長に現れたボーイ。痺れを切らした支配人、ボーイを往復ビンタで迎え、下腹に二度も蹴りを入れる。主人公には、打ち解けた態度。
　事務所からは河港が見える。埃の向こうのざわめき、ごった返す物音。幾つもの黒人の行列ががやがや言いながら働いている。船倉から船倉へ、決して空にならない船の荷降ろしの真っ最中。深紅の靄の中を、数珠つなぎに行きつ戻りつする行列。それらの働く人影のうち、いくつかはまだ背中に余分に小さな黒点を背負っていた。母親たちだ。彼女らは子供を余分に背負いながら、キャベツ椰子の袋を運びにやって来るのだ。蟻にだってこんな真似はできるだろうか。
　日没後、宿舎までの道。ドラの音と、タムタムの調べ。耳を聾するばかりのコオロギ、その音からして、葉っぱ一枚に一匹はいるよう。ひっきりなしのコウモリ。棺を運ぶ土民兵。
　案内係りの少年が、別な奉仕を申し出る。断ると、妹を連れて来ると言う。こんな真っ暗闇のどこから、どうやって妹を探し出せるのか不思議。
　すぐ耳もとの村のタムタムが忍耐をこま切れにする。働き者の蚊の群が腿を占領、床には蠍と蛇の追撃戦。蛇が鼠を噛み砕く音が聞こえる。
　またしても翌日、ボイラーそっくりの日。
　商社の同僚達の仕事ぶり。貨物船を停めていたのでは無駄になる。そこで、荷降ろしと積み荷が同時に行われる。本気で心を痛めて、まるで自分達の懐が痛むみたいに。必死で黒人達を叱りつける、忠勤一途の、ドル箱社員。
　ここの支配人は二年で財産を築く横領計画を練っている。しかし、株主は万事お見通しだ。奴らの方が一枚上手だ。支配人が梅毒病みでじりじりし、キニーネ、蒼鉛、砒素の服用で歯茎も崩れ落ちる程だという事を知っている。
　社員の口癖、くよくよしても始まらん、黒ん坊どもはどやしつけるに限る、等。
　官吏タンデルノの仕事。森のど真ん中での道路建設。しかし、白人はめったに来ないし、黒人は森の中の小道を通る。おまけにこの道路は、どこに行き着くという訳でもない。またたく間に、草木の繁茂の下に姿を消す。「去年なんか百二十二キロの損失さ、誰も本気にしまいが」
　社員一同が待つ事務所に、蛮刀を持った蛮人が籠いっぱいの生ゴムを売りに来る。外には女房や子供達がいる。ゴムを集めるのは時間のかかる仕事、二ケ月かかってコップ一杯にならぬ事もある。彼らが来たのは、今日が始めて。目方を計って、銀貨数枚でおっぽり出す、高飛車な取引。それで何を買うんだと、もう一人が、渡した銀貨を奪って緑色のハンカチを蛮人の手に握らせる。途方に暮れる蛮人。さらに一人が、そのハンカチを子供の首に巻いて機嫌を取る。引き返さざるを得ない蛮人一家。

　土人達の方は、棍棒で殴られないと働かない。それくらいの自尊心は残っている。一方、白人の方は、教育に仕込まれて放って置いても働く。棍棒はふり回す方でいつか疲れる。ところが、金持ちやお偉方になりたい望みを白人に詰め込む方は、一文もかからない。エジプトやペルシヤの王を暴君呼ばわりするのは止めて貰いたい。二本足の獣をとことんまでこき使う技術にかけては、昔の連中は素人に過ぎない。奴隷を君づけし、投票させ、新聞代を宛てがうのも、手段のひとつだ。
　会社の倉庫の岸辺には、絶えず不気味に鰐の群が待ち伏せしている。この鋼鉄張りの連中は、気狂いじみた酷熱を楽しんでいるみたいだった。黒人も同様だった。
　支配人の話、三十年前、黒人連中は部族同士で殺し合っていた。戦勝の後は、血まみれの人肉の籠を百以上もぶらさげ、部落へぱくつきに引き揚げたものさ。　炎熱を逃れるには病気にでもなるしかないと、病院を訪ねる主人公。おどおどした小鳥と色とりどりのとかげで賑わった芝生が、地上の楽園のようだ。
　土人達は、貧困と、自尊心と、諦めの臭気を発散させている。故国の貧乏人そっくり。ただ、さらに子沢山で、まわりに汚い洗濯物と赤ぶどう酒が少ないだけ。

　砦近くのパゴダ風の建物、夜になると金回りの良い白人達が集まる。酒を飲み、賭博に熱中し、二百フラン出せば美しい女将を抱く事もできる。まわりを土人達が囲んで、白人の乱ちき騒ぎを眺めている。女将の話、熱帯の影響で月経が三週間も続く。熱病にやられた将校と官吏の女房の間では、捨て鉢な気分からさかんに情事が結ばれていた。炎暑と、憔悴に関わらず、ヨーロッパで行われている事は何でもやる。それがこの気狂い連の最大の執念、満足、痩せ我慢。
　夜になって宿舎に帰ると、例の変態ボーイが猫のような姿態を見せて誘惑にかかる。
　砦の軍隊について。一個大隊もここでは角砂糖同然、みるみる姿を消す。全員が病院でマラリア治療、高熱と下痢で紙がいくらあっても足りない。本は年中ばらばら、尻拭きと、慈善看護婦が検閲するので半分になっている。毛じらみも多く、看護婦さえ衝立の陰で服をまくり上げる。
　熱病患者のうち、とびっきり狡賢い連中だけが、本国行きの輸送船にすべり込める。だが、それは奇跡に等しい。ほとんどの収容患者は追い立てを喰って密林に戻るか、うじ虫の手に譲り渡される。
　世間の言いなり通りに振る舞えん人間の末路はこんなものだ。若いうちは蝶々、最後はうじ虫。
　この気候と蚊群の中では、人も、歳月も、品物も、みるみる内に消えうせる。すべてが、光線と色彩の奔流に溶け出す。空中にはきらめく苦悶しかなかった。
　やっと赴任地への出発。パパウタ号は、薪で動いていた。あまりの遅さ。パパウタ号は、自分の流した汗の中を進むみたいに苦しげに進む。包帯でもほぐすように用心深く波をくずしながら。
　五時までは日陰、目玉を焼かれない為には、いつも鼠みたいに眼をしばたかせる必要がある。中継地トポに着く。月一回の定期船、竹の桟橋は何千という軟体動物に食べ尽くされるので、毎月作り直さないといけない。前哨基地を守るのは、アルシイド軍曹とグラッパ中尉。ふたりは仲が悪い。
　土人を集めた民兵が十二人、装備もなしに毎朝七時から演習。軍曹の指揮の下、空想の背嚢を降ろし、幻の銃を構え、裸なのにボタンを外すふりをして、見えない又銃を組み立てる。
　小間物を商うアルシイド、煙草、酒、錦布。煙草を買えば、民兵の僅かな給料は残らない。それでも、民兵からは慕われている。
　グラッパの招待、週一回の法廷の日。訴訟人と野次馬の群衆、カスタネットのような言語を周囲に炸裂させる。
　一件目、羊と娘を交換したのに、娘を渡さない。その訳は、その兄が娘を殺してしまったから。悪いのは娘の父、その老人を二十も鞭打つ判決。ほか、持参金を巡る訴訟、殺害の呪いをかけている話など。
　グラッパの弁「こっちは二年も前から愛想を付かさせようと手を尽くしているのに、連中は木曜たんびに集まって来る。しかも、同じ連中ばかり」
　焼き餅やきで、妾にしている土人女を見せたがらないグラッパ。ちらっと見た彼女は素晴らしいおっぱいの持ち主、尼僧の手で育てられ、若干のフランス語を喋べり、砂蚤をつまみ出すのも上手。中尉を疲れさせないように、手を変え品を変え、機嫌を取る術を心得ている。
　アルシイドと仲良くなり、川辺で鋸鮫を釣る主人公。溜めた金を何に使うのか、退役後、ボルドーの淫売屋を梯子するんじゃないかと言って、アルシイドを大いに笑わせる。
　手紙を書く為にアルシイドの筆箱を借りる主人公。そこに、小さな女の子の写真がある。ばつの悪い主人公に対して、背を向けたままのアルシイドの語り。それは兄の娘、両親はなく、ボルドーの尼さんの所に預けているが、そこは高級な僧院。ジネット、可愛い娘、ピアノに、英語も習わせたい。おまけに、小児麻痺にかかって、二年前から左足が不自由。それで、医者に通わせている。どれほど節約せねばならなかった事か、少ない給料、しがない内職の中から。相手を見る眼が変わる主人公。夜、アルシイドの寝顔を見るが、ありきたりな顔。

　さらに奥地へ、丸木舟での出発。十日の遡航、ついで森の中。真っ暗な森、ところどころ緑の大伽藍から一筋の光が射すだけ。倒木のうろは、地下鉄でも楽に走れそうな程。高地から見降ろせば、海か空のように途方もなく豊かな森林。
　到着。竜巻を避ける為、岩と岩との間に建てられた小さな小屋。ほとんど骨組みだけ。戦場に比べればまし、と語る先輩。水は、三日目の花瓶の底のよう。夜は周囲を猛獣が走る、特にハイエナの笑い。おまけに部落民。月が出たといってはタムタム、月が隠れたといってはタムタム、何かかんか口実を作ってはタムタム。百の土人が一万人分の騒ぎをやらかす。猛獣と同盟を組んで白人を悩ませている。
　商売はどうか。奴らに盗まれん内に、こっちから盗む。それが商売。片すみにあるのは、山ほどの缶詰シチュー、象牙、生ゴム。
　この得体の知れない先輩は、爪先で毛虫を蹴り飛ばす方法を教えてくれた。万一しくじって、そいつを踏み潰そうものなら、一週間もぶっ通しに、じわじわ発散される、恐ろしい臭気に復讐されるのだ。
　すさまじいばかりの、アフリカの地獄の黄昏。毎度、巨大な太陽の殺害とも見まがう悲壮な場景。大仕掛けなトリック。もっとも、観客が一人では張り合いのない話。一時間にわたって、空は狂おしい鮮血を全身に浴び、大見栄を切る。やがて、木立ちの間から緑色が湧き上がり、最初の星々を目指して、地上からゆらめきながら立ち上がる。云々。毎日かっきり六時にそいつは起こるのだ。
　ひきがえるの無数の合唱、夜陰のすみずみまで、唸り、吼えはじめる猛獣達。
　寝る間際、ロバンソンと名乗る男。就寝後、記憶をたぐる主人公。そう、戦場で一緒に放浪したあの男だ。思い出して起こすと、すでに寝床はもぬけの空。
　一羽っきりの鶏と暮らすが、三週間目にそれを食べる。翌日、立ち上がれない、糞尿は垂れ流し。高熱、平気で小屋に出入りする黒人達。代わりに食べ物を置いていってくれるが、野性メロンとパパイヤばかり。十五年たった今でも、まだ胸がむかつくほど。
　缶シチューを食べるにも、それを暖めねばならない。黒人が火打ち石を使うのを、勉強する主人公。二度の大嵐で、在庫の布商品は溶けてしまった。落ち目に乗じて、大人も子供も遠慮ない態度。石を打って、火花が眼に飛び込んだりすると、まわりの黒人達は大笑い。
　小屋に火を着ける主人公。奴らは存分に見せつけられたに違いない。梟も、豹も、ひき蛙も、パパガイも。奴らの度肝を抜くには、これくらいが必要だ。

　森の中、担架に乗せて運ばれる主人公。下痢、高熱、おまけに霞み眼。行き着いた先はスペイン領。ふたつの河の合流地点で、しがないスペイン軍人が、同じように小さな小屋ひとつで暮らしている。
　こちらの小屋は少しはましだが、たいして変わりはしない。この男の悩みは赤蟻。そいつら、その虫けらどもは、毎年の移住に、ちょうど彼の小屋を横切って通る事に決めていた。そして、もうかれこれ二月前から通過し続けだった。小屋の大半を占領し、寝返り打つのも遠慮気味、へたに邪魔すれば嫌というほど刺される。
　シチューを進呈すると大喜び、こちらは三年もトマトばっかりだった。赤蟻は、新しい缶詰が入った事を嗅ぎ付けると、シチューの回りに張り番を立てだした。お陰で、用済みの缶を放り出しておく訳にいかなくなった。その時、そいつらは種族全体をも小屋の中に引っ張り込みかねなかった。
　そこから三日で、スペイン領の首都サン・タペタ。着くなり、司祭の手に引き取られる主人公。眼が覚めると、揺り籠に揺られているような感じ。そこはガレー船。多くの漕ぎ手、深紅の帆、金ぴかの船先楼、船首にはコンビタ王女の姿。ここの船長が病人を引き取ったのはひとつの賭け。新鮮な空気で、病気は快方に向かう。寝室を見舞う船長、「もう少しさ、お乞食さん、今にほかの奴らと一緒に漕げるようになるさ」と励ます。
　たまに漕ぎに出る主人公、めまいのせいで、十人の同僚が百人くらいに見える。ほとんど帆で動いてるので、漕ぎ手の出番は少ない。航海の長いのだけが不満。僕としては、もうこいつは、海と森の眺めは、もう一生たくさんだ。

　着いた所はニョーヨーク、突っ立った街。濃霧、糞だらけの川。
　コンビタ号にいれば、そこそこの報酬はあり、六十を過ぎればスペイン国王から恩給が出る。甲板にとぐろを巻き、オカマを掘り合って過ごす仲間達。しかし、主人公は外に出る決意をする。「お前なんか、きっとどやされどおしさ」と反発する仲間達。
　ひとり放浪し、発熱し、施設に入れられる主人公。ガレー船で身に付けた技術で、蚤を取るのがうまい。各国から移民が来るので、その蚤を取る仕事に就く。
　駐屯地の生活、軍医ミスチーフの娘が、事務所の前でテニスをする。十五才の輝かしい肉体、ひどく短いスカートで、脚といえば、あれほど素晴らい脚はめったにお目にかかれない。幸福への誘い、若い士官はみなべったり。欠員が出て、都心へ栄転。

　マンハッタン、正午近く。陰気な群衆の間から、突然、夢ではなく、すばらしい美人の大群がなだれのように溢れ出した。アメリカの魅惑、ローラの思い出、彼女の見本に嘘はなかった。これを享受するのに、自分にはひと切れのサンドイッチが足りない。おびただしい金髪女の群れ、栗色髪の女の群れ。後から後から、ぞくぞく現れる。よだれも、小便も、垂れ流しそうな主人公。死ねるものなら、この瞬間に死んでしまいたい。思い残す事は何ひとつない。
　男は、赤い木でできたような顔、下品な顎。巡査の眼を避けて地下のトイレに入ると、そこでは人目も憚らぬ排便。その陰日向ぶりに驚く。
　ラルフ・カルヴィン・ホテル、そのロビーのソファには、百人余りの美女が、裾をはだけて脚を見せつけている。なんたる強姦への誘い。
　小部屋を借りる主人公、ボーイの案内。行き当たり、カーブ、またカーブ。寝つけない主人公、外へ出て映画を観る。わずかな魂の陶酔を得て、やっと眠りに着く。

　ニョーヨークの貧民街、脚の曲がった子供が多い。
　持ち金は残り３ドル、タイムズ・スクエアの大衆食堂。行列で隣合った娘に、「私は金持ちです、何でも買って上げましょう」と言えたらどんなに良いか。
　金髪の給士女を口説く主人公、用心棒に追い出される。

　ただ懐具合の為に、ローラを探す。苦労して探した所は、七十七番街の二十三階。あんまり歓迎されない。そこへ、四人の女友達の訪問。主人公を残して外出するローラ。召使と食事、二台のクルマ、河にヨットを持っているローラ。帰宅、すぐ外出、ローラが面倒を見ている母子家庭への訪問。また帰って、癌を患う母の話。百ドルが手切れ金、最後にキスを迫ると、銃を構えられる。

　デトロイト、フォードの工場、機械の奔流。一緒に並んでいる男は、ユーゴスラビアから来た。検診の後、すぐに就業。
　互いに粉砕し合う大音響、ある物は凄まじさのあまり周囲に一種の静寂さを醸し出すのだった。それによって辛うじて人心地つく。
　ボルト締めを三日で外されて、トロッコ押しに回る主人公。六時になってすべてが停止すると、頭の中に騒音を詰め込んで帰る。騒音と油の匂いが、ひと晩中離れない。新しい鼻、新しい頭脳に、永久にすげ替えられたよう。
　やがて別人になった。ただ触れたいのは真実の肉体。ばら色の肉体。
　苦心の末、遊郭を探し当てる。たった５ドルで、愛想よく迎えてくれる。給料は残らずつぎ込む。フランス仕込みのテクニックで歓迎される。ただし、土曜日の晩は、酔っぱらったベースボール・チームに席を譲らねばならない。この一団は、どんちゃん騒ぎが目当て。
　モリイと馴染みになる主人公。一緒に散歩もする。工場ぼけも理解してくれる、勤労世帯出身のモリイ。主人公日収６ドル、モリイ百ドル。50ドルの小遣いを貰って、ぱりっとした背広を買う。フォードを辞めましょう、二人して貯金をして店を始めましょう、と口説くモリイ。しかし、主人公には放浪癖がある。
　三週間の欠勤の後、解雇される。昼の間、モリイを待つ主人公。市電で郊外をぶらつくと、フェルディナンと呼ぶ声。ふり向くと、ロバンソン・レオン。電車に乗って、女が一人も居ないと判ってがっかりした様子で、お前と判った。今は夜勤で清掃の仕事をしているロバンソン。
　大陸へ帰る、モリイとの別れ。また戻るとの言葉に、いいえ、あなたは帰らない、わたしもここに居ないと答えるモリイ。騙されるような女じゃない。ロバンソンとも別れ。

　またも振り出し、生活の為のけち臭い仕事を求めて、クリシイ広場の回りをうろつく。働きながら、六年の勉強で医師免許を手に入れる。ただし、医者の多い時代。
　下町のガレンヌ・ランシイで開業、界隈の評判は今いち。路面電車に群がる若者達は、仕事に出る事を楽しんでいるように見える。眼の前には、下水のようなセーヌ河。不景気、失業、無料診療所は満員。患者は来ない、出だしは時間がかかる。
　毎朝七時、表を掃除する少年ベベール。

　兎野と呼ばれる所に、持ち家を構えるアンルイユ夫妻。たっぷり五十年の倹約の成果。家を買って、始めて病気に悩まされる。裏庭では、アンルイユ婆さんが小屋に閉じ込めらてれいる。三千フランの年金があるので、精神病という事にして施設に閉じ込めれば、家族は助かる。その相談をしている所へ、嗅ぎ付けて乗り込む婆さん。

　ベベールの案内で、六階の患者の所へ行く。二十五才の娘で、三回目の堕胎。顔は知っている、これほど、やり好きな女も珍しい。その道で文字通りのチャンピオン、快楽の美しい女闘士。若い男は目じゃない、結婚している男しか相手にしない。その道の達人ばかり。自然の素晴らしい成果を認め、味わう事を心得ている連中。しっとりした肌、やさしい微笑、豊満な尻、こういったものが、眼の肥えた局長級の間で、当然人気をさらったのだ。
　あんまりひどい出血で、膣も見えない状態。血の固まり、大佐のちぎれた首みたい。病院にはやりたくない家族。血の滴が、寝台のスプリングから、ぽとり、ぽとり。
　わめき立てる母親は、若干、娘に嫉妬している。娘が忘れがたい深みで男に抱かれ、大陸のように快楽を味わうやり方に対して。
　家賃を支払う為に、食器戸棚を売り払う主人公。近所の夫婦の児童虐待。

　上流階級の令嬢が、私生児を出産する為にランシイに来る。そこで、親族から離れて、第二の人生を歩む。
　ベベールの発病、悪性チブス、あちこち奔走するが、有効な手だてを打てない主人公。研究所の専門医パラピーヌを訪ねる。
　私が腸チブスの研究に手を染めた頃は、この領域の探検家は少なかった。だから、お互いを立てる事もできた。今じゃあ、どうです。ラップランド、ペルーからも専門家が殺到する。日本でも大量生産している。私は諦めて、今の地位を守れれば良いと思っている。腸チブスも今では、マンドリンやバンジョーのように手垢にまみれている。

　セーヌ河で時間を潰して帰ると、ベベールの死。

　主人公の待合いに通いつめるアンルイユ婆さん、そこへ帰国したロバンソン。咳が止まらず、真っ黒な啖を吐くロバンソン。就職口を探すが、その人殺しのような顔では無理だ。
　下が警察所になっている建物、癌と流産が一度に。産婆と医者の、仕事の取り合い。
　奥さんが流産で死にそうな夫、医者を捕まえて、洗濯屋の娘達がミルクで育てた仔犬について、とりとめのない話をする。
　頼まれて、アンルイユの裏庭に兎小屋を建てるロバンソン。実は、兎小屋に泥棒よけの爆弾を仕掛けて、婆さんを殺す計画。

　縁日の出店、射的場、小遣いを巡って子供らは辛抱する事を学ぶ。酒場の女中が包丁で怪我、傷を縫って包帯を巻く主人公。ロバンソンの登場、婆をやった代金、いつの間にか千フランから一万フランに上がっている。口止め料が含まれている。売春もやる女中セヴリーヌ、それを表で待つアラブ人ふたり。

　深夜に、アンルイユからの呼び出し。着いて見ると、婆さんの大喧幕。二階のベッドへ上がると、ロバンソンの顔が血まみれ。顔に被爆して、視力が危ぶまれる状態。婆さんの復活、嫁を際限なくいびり抜く手段を手にして有頂天。
　日に二回はロバンソンの診察。包帯を替える途中に窓を開けても、それに気付かないロバンソン。
　ロバンソンの身の上話、十一の時から婦人靴店で奉公。配達に出て、上流婦人から誘惑され、快楽を覚えた。そして戦争、放浪。眼をつぶると、様々な思い出が映画のように甦ると語るロバンソン。その小型映画と飽きるほど付き合わなきゃならないと言う勇気を、持ち合わせない主人公。
　日が立つにつれ、最初は感銘を与えた徒弟時代の情事も、家中の笑い草にされてしまう。空中に、人前にさらせば、僕らの秘密の末路もこんなもの。
　油断した隙に、包帯を外して窓辺に寄るロバンソン。「バルダミュ、空いてるぞ、空いてるんだ、窓が」　両腕を新鮮な大気に突き出すロバンソン。信じたくなかったのだ。寝台に戻すと、彼は泣いていた。
　夫妻は、貧民救済局に相談。

　金持ちは喰う為に自分で人を殺める必要はない。奴らは、人を使うのだ。世間の奴らは、金持ちを喜ばす事なら何でもするし、それを名誉と心得ているのだ。
　月八百フランで無料診療所に雇われる主人公。生活保護を当てにする貧乏人が引きも切らない。結核性の啖を吐けば、それが貰える。

　司祭プロチスト師の訪問。老婆とロバンソンをどこかへ押し込む為に、奔走中。
　南仏トゥルーズで二人の為に見つけた仕事。それは、ミイラの洞窟。観光客相手に、教会の地下納骨堂を案内するというもの。
　主人公が駆け付けるなり、警戒するロバンソン。夫妻は思案顔。困った奴らだ、いつも急ぎ過ぎるんだ、と舌打ちする主人公。

　失業と不景気に見舞われたランシイ、おまけに冬だというのに暖かく流行り病もない。歩いて往診に出る同業者。
　ランシイを出よう。ひねくれた、臆病なくせに喧嘩っ早い、空威張り屋の集まりよ、さらば。ベベールの叔母にだけ、挨拶して出る。
　未成年女子に手を出して、研究所を追われたパラピーヌと出会う。ナポレオンの話。
　ロシアから退却する際、ナポレオンの将軍達は、彼がポーランド女に会いにワルシャワへ寄るのを思い停まらせるのに手を焼いた。暴君は自分の演じる芝居に観客より先にうんざりする。暴君は民衆の為に陶酔を分泌するのに飽きると、女とやりに出かける。そうなりゃ一巻の終わり、運命の神はそいつを見捨てる。崇拝者たちは命を捨てても構わない。しかし、退屈な奴に変わっちまった事、こればかりは許せない。
　そこへゆくと映画は、一時間二時間で夢が手に入る。おまけに芸術家がいる。今日では、用心の為に、そいつがいたる所に配置されている。雪隠も、屠殺場も、公営質屋も、いたる所が装飾されている。
　タラプウト座の幕間、パシャの役をやる男がいなくなった。座長の申し出を受けて、その役に納まる主人公。イギリス娘の踊り子の絢爛たる群に取り囲まれて、じっと立っているだけの役。

　下宿住まいをする主人公。回りは若い学生が多い。冒険の果てに、また学生達の仲間入り。
　下町の色情の斡旋屋ポモーヌ、サド、マゾ、鞭、女王様と、好みに応じて相手を紹介する。特大な陰茎の持ち主の医学生、この果報者に対して、郊外の、上流夫人の内輪の集まりからお座敷が掛かる。
　モンマルトルの丘、ベベールを始めとする死者達が、天使となって雲を行くのが見える。

　遠くから見るランシイは魅力的だ、墓場の樹のせいだ。再び訪ねる主人公、アンルイユ夫人の招き。病床の夫から、何とか入れ歯を取らせて欲しい。それは金で出来ている。

　プロチスト師の訪問。トゥルーズの二人が会いたがっている。ロバンソンの眼は快方に向かい、地元の若い娘と婚約までしている。
　貧乏人は年を取るほど若返る。持って生まれた卑屈さ、服従心、そういうのを年とともに取っ払い、腰抜けでなくなる。奴らの勤めは、服従心を糞とともにひり出してしまう事。
　トゥルーズで下車、知らない都会は良いもの。みんなが親切だと思える。
　サン・テポニイム教会に到着、門番の娘が案内。これがロバンソンの恋人、小柄で、目鼻立ちの整った、要するに勿体ないほどの娘。納骨堂を案内してくれる。階段を降りた所で抱きすくめ、首に接吻しても、たいして抗議しない。
　案内は、普段はアンルイユ婆。自分は裁縫の仕事をしてて、昼休みだけ代わる。五百年の時を重ねたミイラ、死体というにも当たらぬ。死体の時代はとうに過ぎて、埃との境目にさし掛かっている。男女、せむし、大男、赤ん坊のミイラまで。
　アンルイユ婆の案内ぶり、観光客相手に見事な饒舌をふるう、時にはミイラの胸を叩いて見せさえする。それは太鼓のような音を立てる。
　結婚は本気。この娘マドロンは、トゥルーズでよっぽど退屈しているに違いない。

　料金の三分の一は司祭がぴんはね。死体と、観光客に囲まれたアンルイユ婆さんの、いきいきとした姿。あたしのレオン、と呼んでぞっこんのマドロン。二人でレストランを開く予定。

　近郊へのピクニック、三人連れ、川沿いに歩く初夏の一日。河に泊めた帆船から、アコーディオンの響き。木陰でそれを聞く三人。船から来た犬が、ロバンソンに吠える。船主の警戒心、しかし、相手が盲であると判ると態度を和らげ、詫びを入れる。船主は若い画家、食卓が十三人なので、三人を招く。
　亭主は若い、美貌の芸術家。女房は亭主に首ったけ。冷たい飲み物にデザート、お代わりをする為にしょっちゅう体をひねるマドロンは、皆の気に入られる。見るからに金満家の画家の父親は、マドロン一人の為にテーブル中の御馳走を掻き集めていた。
　カカオ農園主の老人と、話を合わせるほら吹きロバンソン。嘘を並べ、懸命に、その大物老人の高さまで背伸びしようと。
　医者と聞いて、病気の話題で盛り上がる。主人公も調子に乗り、技師の招きでトゥルーズの別荘に逗留中と言う。眠気まで催したので、別れる。
　丘の上で休む。主人公から離れた二人、いちゃつく。不自由はさせん、医者は助平、にゃんこちゃん、あたし真っ赤だわ、と続く。

　帰ろうとした矢先、アンルイユ婆が階段から落ちた、来てくれとの知らせ。頭の骨を折ったと聞いて、考える暇もなく、汽車に乗る主人公。

　パラピーヌの紹介で、精神病院に就職する主人公。給料は安いが、食事は良い、おまけに看護婦をものにする事もできる。雇主バリトンはそういう事には寛大、むしろ使用人を居着かせるのに役立つという意見。
　お喋べりなバリトン、なんとか機嫌を取って気に入られる主人公。

　二十年前は、日のたった菓子みたいに安値で売られていた土地。それが高騰。周辺の病院との競争で、新しい医療機器を買い揃えねばならない。
　バリトンの饒舌、パラピーヌの沈黙、院長の機嫌を取る主人公。とうの昔に、自尊心は放棄している主人公。そういう感情は、僕の収入に比べて千倍も費用がかかり過ぎるようだ。
　給料は同じで、もっと従業員を利用したいバリトン、主人公から英会話を習う。　世界旅行に出かけるバリトン、残されたパラピーヌとフェルディナン。二人で病院経営。

　ロバンソンの訪問、眼が見えるようになると、婆あが邪魔で仕方がなかった。俺の行く先を塞ぐんだ。意外に、マドロンにも未練がない。ロバンソンに看護士の仕事を宛てがう。

　巡査のギュスターヴは夕食の常連。マドロンの訪問。良い地位に就いて得意な主人公、マドロンに平手打ちを喰わして追い払う。

　看護婦の募集、おびただしい数の美しい娘達、あらゆる国籍の体格の良い女の中から一人を選ぶのに困るほど。結果、ソフイというスロヴァキア人を雇う。
　彼女がそばに居て、立ち上がったり、僕達の机に近付いたり、遠ざかったりする。それだけの事で、僕達は惚れぼれと見取れるのだった。彼女が、なんでもない動作をする度に、僕達は驚異と歓喜を味わっていたのだ。パラピーヌは女性に関しては感激性ではなかったが、その彼までが彼女が部屋から出ていった後はひとりでにやにやしている始末だった。彼女を眺めているという、ただそれだけで、心に幸せが訪れるのだった。
　僕達は、彼女の上役というよりも友人だった。そんなこんなで、けっこう楽しい毎日が過ごせた筈だった。
　ソフイの忠告、もう一度、マドロンさんに会って謝らねばなりませんわ。根は良い娘さんに違いありませんわ。

　郊外の縁日で四人の集合、マドロン、ロバンソン、ソフイ、主人公。メリーゴーランド、射的場、四人で写真を撮る。
　四人でタクシーを拾う。
　マドロンの非難、耐えるロバンソン。鉾先は主人公に向けられる。「もう一度あたしに手を上げてごらん、マドロンさんが行儀を教えて上げるよ。友達の女を寝取って、そのあとで女を殴るなんて。なんて恥知らずな厚かましい奴」
　レオンを誘って、クルマから降りようとするマドロン。「白状するが良い。新しいのが欲しいんだって。さらの、尻軽が良いんだろう」
　ロバンソンの苛立ち、「勇気がない、愛情がないと言われる度に、俺はうんざりするんだ」
　マドロンの最後通牒、「来るの、来ないの」　ロバンソン「いやだ、勝手にするが良い」　マドロン、発砲。
　病院で、ロバンソンの治療、モルヒネ注射、死亡。

　僕の放浪は終わりだ、ほかの奴らの番だ。世界は閉ざされて、果てまで来てしまったんだ。縁日と一緒、あとには悲哀が残るだけ。
　遠い汽笛が、すべてをかっ浚ってゆく。

セリーヌ略歴
　1894　05/27、誕生。本名ルイ・フェルディナン・デトゥシュ。父は保険会社員、母はレース行商人。
　1902　８才、母、パリでレース行商、少年、手伝う。
　1905　11才、小学校卒業、就職して使い走りの傍ら、大学入試資格試験の勉強。
　1912　18才、大学入試資格試験合格、騎兵隊に志願入隊。
　1914　20才、第一次世界大戦、フランドルに騎兵軍曹として従軍、危険な伝令任務を遂行。武勲章を授与。国民画報誌、一面全面でデトゥシュ軍曹の挺身的愛国行為を讃える。
　1916　22才、アフリカに転属、マラリア、赤痢を併発して帰国。
　1918　24才、除隊、医学の勉強、ロックフェラー財団の後援を得る。
　1919　25才、レンヌ医学校長の娘エディット・フォレと結婚。レンヌに住む。
　1920　26才、長女コレット誕生。世界恐慌。
　1925　31才、離婚。国際連盟に就職、ジュネーヴ、リヴァプールで働く。黄熱病の研究で、再びアフリカに行く。
　1926　31才、アメリカ視察、フォード工場訪問。
　1928　34才、下町クリシイで開業。昼は医療、夜は執筆。アメリカの踊り子エリザベス・クレーグと親密。
　1932　38才、夜の果ての旅、ドノエル社から出版。筆名はルイ・フェルディナン・セリーヌ。文壇に革命、社会に衝撃、驚異的な売れ行き。ジッド、アラン、ヴァレリーを粉砕。サルトル、ボーヴォワールはセリーヌを師と仰ぐ。
　ジャン・ルイ・ボリイ「それは噴火するマグマのよう」　モーリス・ナドー「これほど強烈な、これほど真実なものは、かつて読んだ試しがない」
　1934　40才、ゾラを讃える講演。
　1936　42才、なしくずしの死、発表。
　1937　43才、ソビエト旅行、その偽善性、機械主義を批判。フランス共産党から人類の敵、ゴーリキーからファシストと呼ばれる。
　資本主義批判、ブルジョワ批判としての反ユダヤの立場が、ファシストと混同され、国賊作家と呼ばれてしまう。
　ボルドー・ニューファウンドランド島航路の貨物船に船医として就職。
　1938　44才、サン・ジェルマン・アレで開業、患者寄りつかず。政治評論「死体派」発表。反戦、反資本主義、反ユダヤ主義で、左右両陣営から叩かれる。
　1939　45才、第二次世界大戦、マルセイユ・カサブランカ航路シェラ号の船医に就職。
　1940　46才、サルトルヴィルの無料診療所、ラ・ロシェルの病院、モンマルトルを転々。
　1943　49才、リュセット・アルマンゾールと結婚。
　1944　50才、レジスタンス、セリーヌ宅を襲撃。デンマーク行きの途中でナチスに捕まり、対独協力を求められて断り、ジーグマリンゲン収容所に入れられる。
　1945　51才、終戦、戦犯容疑でデンマーク政府により逮捕。十四ケ月の投獄。（ただし、デンマーク政府は戦犯容疑のセリーヌをフランスから保護する立場）
　サルトル、セリーヌの反ユダヤ主義を攻撃「セリーヌが、ナチスの社会主義的主張を支持したのは、買収されたからである」と中傷。　多くの対独協力者は死刑、もしくは自殺。
　1947　53才、釈放。
　1950　56才、パリ裁判所、セリーヌを対独協力戦犯と判決、国籍剥奪、資産没収。
　1951　57才、パリ郊外ムートンで開業、患者寄りつかず。妻リュセットのバレエ教室で食べる。米評論家ミルトン・ヒンダス、セリーヌ評伝「敗残の巨人」発表。
　1954　60才、相次ぐ旧作出版、ジャン・ポーラン、レーモン・クノー、マルセル・エーメ、ヘンリー・ミラー等によるセリーヌ擁護に関わらず、失意と貧困の日々。
　1957　63才、城から城、出版。若い作家ロジェ・ニミエ、アントワヌ・ブロンダン等の支持。
　1960　66才、「北」出版。
　1961　67才、7/1、永眠。墓地はムードン郊外、線路沿い。
　ドブリ・パネル、マルク・アンレス、ポル・ヴァンドロム、ピエール・ド・ボワデフル、様々なセリーヌ研究者の輩出。

　綴り、Louis Ferdinand Celine

参考
　文学の遠吠え読書感想欄に「なしくずしの死」があります。
　
　
　
　
　
　
　

寸評
　面白い、面白すぎる。
　前半の戦場、植民地の場面は、全人類の遺産、至宝ですね。
　セリーヌの皮肉な眼差しは、戦場や植民地に向けるのにはお誂え向きですが、下町の貧乏人に向けるには、愛情が足りないような気がします。貧乏人が悪事を働くのは、よっぽど追い詰められた上での事ですから。
　カミュ、サルトル、ジッドが、みんな子供に見える。セリーヌ一人が巨人で、あとはその惑星です。植民地描写でカミュ、ジッドはこれを真似、サルトルはセリーヌに讃辞を捧げてデビューし、後にこれを裏切った卑怯者です。映画監督ジャン・ジャック・アノーのデビュー作も、セリーヌを下敷きにしているでしょう。でも、みんなセリーヌの偉大さには口をつぐんだままなのです。
　フェルディナンとロバンソンの彷徨は、容易に、真夜中のカウボーイ、スケアクロウ、俺達に明日はない、を連想させるでしょう。ハリウッドがニューシネマを作ったのはベトナム戦争末期、帝国主義、植民地政策が行き詰まると、人は内面を問うようになるのです。

　「なしくずしの死」以降は、戦場や植民地はあまり出て来ません。でも「城から城へ」は捕虜時代の話が詳しく、セリーヌも庶民よりの立場に立って、秀作です。

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